「ごめんね」
小さく呟くように放たれた言葉は弱弱しく、静かな夜の闇が一瞬でかき消してしまう。しかし、霧子(きりこ)にとってそれは彼から贈られた大切な言葉であり、これまでの愛がかけがえのないものであったと実感できる言葉であるため、心の記憶装置にしっかりと刻みつけた。
「謝らないで。私は平気だから」
霧子はそう言って、座っていたベンチから立ち上がり、一歩二歩とゆっくり足を運んでいく。先に出した右足に体重を乗せた後、次は反対の足をゆっくりと動かす。明彦(あきひこ)は座って下を向いたまま、目だけで彼女の動きを追っている。静かな夜の闇の中、霧子の足で削られる土の音だけが微かに響く。
三歩だけ進んで立ち止まる。今にも落ちてきそうなほど無数に散らばる夜空の星たちが見守る中、じっくりと時間をかけて気持ちを整える。
別れの日が来るのは、薄々予想していた事。霧子の仕事が忙しくなってからは、なかなか会えない日々が続いていた。霧子が休みの日に限って、明彦に用事が出来てしまい、まさにすれ違ってばかりだった。
今の仕事は、霧子がずっと希望していた分野である。そのために勉強もしてきたし、キャリアを積んできた。恋愛と仕事のどちらかを取るかと迫られるなら、彼女は間違いなく仕事を取るだろう。こんなチャンスは二度とないと、よくわかっているのだ。
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体の距離は心の距離。傍にいられない自分の元から、いつか彼の心は遠ざかっていく。だけど、仕事を辞める事は出来ない。こんな自分に、彼を責める資格はない。霧子は振り向くと、彼に微笑みを投げかけた。
「本当に、良いの?」
そう尋ねる彼の優しさが、心の奥底に沁(し)みてくる。彼も私の事を愛している。愛しているからこそ、憎みたくない。このままずるずると時を重ねていけば、お互い負の感情が膨らんでしまう。お互い、好きなまま別れたい。そんな彼の思いやりが、霧子の心を勇気づける。
「うん、大丈夫。泣かないよ。私は泣かない。大丈夫だから、心配しないでね。笑って別れた方が良いもんね。うん、大丈夫、大丈夫だから……」
何度も繰り返す、大丈夫と言う言葉。それは、霧子が自分自身に言い聞かせている言葉。
「じゃあ、元気で」
「うん、あなたも元気でね」
「早く良い人と出会ってね」
「うん、あなたも、早く良い人と出会ってください」
この会話を最後に、二人の距離は遠ざかっていく。最後まで笑顔を見せていた霧子だったが、遠くなる明彦の背中を見つめながら、堪(こら)えていた涙が溢れ出してくる。彼を優しく包む夜空の星たちが、霧子の瞳の中で泡のように消えていく。
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