美優(みゆ)の目の前にいるのは、彼女がずっと憧れてきた小説家の真行寺(しんぎょうじ)。走ってきたのか、息を切らせている。彼に会えた嬉しさについ抱きしめてしまったが、忙(せわ)しない心臓の拍動が彼女の胸に伝わってくる。
「ごめんなさい、ちょっと遅くなってしまいました」
「そんな、全然遅くないですよ。さあさ、どうぞ中に」
キスしてしまいたい感情を押し殺し、彼を部屋へと誘導する。昨日まで、どんなに手を伸ばしても届かなかったのに、今は彼女の横にいる。「もしかして夢?」と疑ってみるが、彼の手から伝わる体温が夢ではない事を教えてくれた。
「素敵なお部屋ですね」
「ありがとうございます。どうぞ、ソファーにお掛けになってください」
そう言って美優はキッチンに向かう。彼のために焼いたクッキーを皿に乗せ、お気に入りの紅茶を入れて戻ってきた。
「先生の口に合うかしら?」
「美優さん、ありがとうございます」
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十歳近くも年下の自分に敬語で話す彼を、美優は心から尊敬していた。すらりとした長身に穏やかな笑顔。外見の容貌も好みのタイプに違いない。しかしそれよりも彼女の心を掴んだのは、内面的な人格に他ならなかった。
過去の恋愛で傷ついた心の傷は容易に癒されるものではない。もう自分は一人で生きて行こうと思っていた。そんな彼女の悲しみを、スポンジのように吸収して修復してくれた先生。
出会えた事だけで幸せだと思っていたのに、日に日に募る寂しさ。時にその寂しさゆえに、不満をぶつけた事もある。それでも先生は、彼女の全てを受け入れてくれた。
「先生、私と初めて直に会って、幻滅していませんか?」
彼の優しさを信じているのに、どうしても直接の言葉を聞きたい。
「思っていた通りの素敵な女性でした」
ささやくように優しく言われ、彼女の瞳に涙が滲む。
「先生!」
かけていた眼鏡を外して、彼の胸に飛び込む美優。いつもスマートフォンの画面越しから見ていた彼の胸は、想像以上に逞(たくま)しかった。
「美優さん、やっとここまできましたね」
「先生、奥様とはもう……」
「はい。お互い、残り少ない人生を自由に生きましょうと言われました。彼女にも素敵なお相手がいるみたいですよ」
「そうなんですか。それは良かったです。安心しました」
「はい。僕も独身に戻りました」
「だったらもう、何の問題もありませんね」
「そうなんですが、僕には少し気がかりが……」
憂いを含んだ言い方に、美優は敏感に反応する。
「何か気になる事があるんですか?」
「僕はもう年寄りだけど、あなたはまだ若い。もっとお似合いのお相手がいるんじゃないかって……」
「先生!」
美優は彼の口を唇で塞いだ。熱烈なまでの感情を込めてキスを繰り返す。
「先生、私の事が嫌いなんですか?」
「そんな事はありません。僕はあなたが大好きです」
「だったら良いじゃないですか。年齢なんて関係ありません」
「歳をとると、自信がなくなってくるものなんですよ。しかも僕はバツイチ。美優さんに申し訳なくて」
「先生、私、先生の歳もバツイチな事も知っています。そんな先生が大好きなんです」
美優の瞳に涙が滲んでいる。それを見て、真行寺は「しまった」と思った。何のためにこの地に来たのか。ゼロからこの人とやり直したいと思って、ここに来たのではなかったのか。改めて、自分自身の覚悟を問われたような気がした。
美優は彼の手をとり、自らの両頬に当てた。彼の手を滑らせて、自分の顔を撫でていく。
「先生、私たちは今日から始まったばかりなんですよ」
「今日から?」
「そうです。私たちは今日からここで、新しくスタートするんです」
美優は彼の左手に唇を当てた。そしてその唇を、ウサギのように動かす。
「先生、美優はウサギ。ウサギは寂しいと死んじゃいますからね。ぎゅってしてください」
そう言って、彼の手を背中に回す。
「こうかい?」
真行寺は美優を力強く抱きしめる。
「先生、キスして……」
美優は目を瞑ってそう言った。
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