花言葉

 「用事があったついで」

 そう言って彼は、固いスツールに腰をかけた。

 「仕事は?」
 「向こうは雨で、現場がないから好都合。図面、見飽きたし」

 ポーカーフェイスだけれど、言葉を選んでいる様子から嘘だとすぐにわかる。

 「手紙でも電話でも、何でちゃんと知らせないんだよ」

 半ば呆れたように言い放った彼は、スツールをベッドに近付けた。

 「うん。たいした事ないから」

 持参したタオルケットを、口元まで引き上げて答える。彼は眉間にしわを寄せ「ふーん」と唸る。

 「ほんとに外出許可、出たの?」
 「うん」

 間髪入れずに答える。

 「自宅療養期間、変更なし?」
 「うん」

 しばらく間をおいて、学生の頃にはまるで想像できなかったブランドバッグから、スイと紙切れを二枚差し出す。

 「野外だけど、指定席。前列。一枚持って。途中疲れたら、一緒に帰る」

 まるで箇条書きを読み上げるようだ。

 「え? どうしたの? とるのムズカシ…」
 「弟を志望校に入れてやった俺の、無料カテキョの代償、有効期限内なのだ」

 口を覆っていたタオルケットがストンと落ちたのも忘れて言おうとした言葉を遮り、笑いながら彼が言った。

 彼と出会ったのは中学校。それほど大きな学校ではないが、二人で点差を争った甘酸っぱい思い出。転校生の私は、目立つと何かしら陰口めいた事を言われた。私の様子を察知しては、さりげなく雰囲気を変えてくれたのが彼だった。淡々と、時にエスプリのきいたジョークを放つ彼は友人も多く、楽しく話す事ができる貴重な存在だった。

 病院から出るために着替えようと、ベッドから立ち上がる。

 「おぉ。俺のセンスの良さだな。プレゼントのパジャマ、似合うじゃん! てか、見舞いで見る事になるとはなぁ。複雑。着替えのお手伝いで、ナースコール代わりに呼んでくれてもいいけど、ひっぱたかれるのはごめん被る」
 「ったくぅ」

 おどける彼に呆れながら、勢いよくカーテンを閉める。

 「この勢い、アタシ達ってほんと、色気ないわね」

 今度は、おねぇ言葉で笑わせてくれる。

 人影がまばらな公園をゆっくり歩きながら、改めて訊いた。

 「ねぇ、彼女いないの?」
 「まぁね」
 「どうしてかな? いても、おかしくないのにね?」

 ルックスを最重要視しなければそこそこの彼は、知るほどに魅力的ではないかと思う。

 「あーた、それが遠方から見舞いに来た俺に浴びせる質問? どういう回答が欲しいの?」

 急に立ち止まると、珍しく強い語気で返された。

 「ごめんごめん。人それぞれ、諸事情ってもの抱えてるよね」

 びっくりして、珍しく愛想笑いをする。

 「そういう顔とか言葉、嫌い」

 立て続けに言われて、へこんでしまう。おかげで、楽しみにしていた恒例の美術館巡りが面白くない。いつもなら一緒に観るのに、距離をとって歩いている。彼のユニークな解説やコメントがないせいか、どれも心に留まる事はなく、たまらなく寂しい。帰りの時間が近づくのに、ほぼ無言の状態が続く。

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 「そろそろ、戻らなきゃね」

 彼が促す。

 「うん」

 頷いて、彼の前を歩く。伸びた街路灯が鈍く灯り始めた時、自分でも信じられない言葉が零れた。

 「ねぇ、抱いて欲しい」

 泣き顔を見られたくなくて、振り向く事が出来ない。言葉がなかった寂しさを一瞬で埋める温もりが欲しい。横の影が固まっている。街路灯は一気に明るくならず、弱い光を放ったまま。光に激突して果てる虫の気持ちが今ならわかる。

 「それはさ……本気?」

 明らかに戸惑いの声だ。

 「わ、笑うよね。は、初めて使った言葉だ」

 自分で言った言葉が頭の中で渦を巻いて、声が掠れる。今の言葉を笑い飛ばしたいのに出来ない。沈黙の後、影が一歩近付く。

 「だよね。そういうタイプじゃない不器用さ、知ってる」

 影の主は、私よりずっと大人になっていた。

 「不意打ち食らった。俺の準備が出来てない」

 準備? 準備ってなんだ? グルグル回る頭で考える。意味がわからない。

 「だから、コントロール出来ない……。そのまま前見て、タクシー拾って病院戻れる?」

 濃くなった影が揺れて見えた。

 「今、顔見られたくないんだ」

 とりかえしのつかない事を言ってしまった。後悔がこみあげる。

 その後、彼からの連絡はなかった。退院して自宅に戻ると、母が悲鳴に近い声で私の名前を呼んだ。母の顔が見えないほどの、黄色い薔薇の花束だった。

 「なにこれ! 〇〇君じゃない!」

 特進を勧める保護者向けの懇談で一緒になる彼の母親や彼を、母も記憶していた。

 「お花屋さんのイベントでもあったのかしら? どこに置くのよ、こんなに! 飾る場所ないからご近所にあげていい?」

 こういう母だから私はこうなのか。あの出来事を思い出して顔が火照る。中途半端な本数だが、その数はチケットに書かれた日付までのカウントと合致する。添えられたメッセージカードには、こう書かれている。

 「When you are ready please order at the counter.」

 自分の鈍感さを思い知る。彼には、もっとデリカシーのある女性が良い。

 コンサート当日。彼にもらった同じ色のバラと、私とわかるマークを座席に置き、係員に誰かが移動したりしないように頼んできた。

 華道をたしなみ、花材を選ぶ時に花言葉も知った。黄色い薔薇の花言葉は、心変わり。

 看板を掲げる事はしないが、遊び心で時々花を飾る。長い年月を経た今も、黄色い薔薇だけは、手にする事はない。
   作:イーチョン

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