芥川龍之介先生の書いた小説「学校友だち」は、昔の表現で書かれていますので、自分なりに解釈してみたいと思います。これは、芥川先生の学生時代の友人について書かれたものです。冬の夜、原稿用紙に向かっていると、ふと心に浮かぶのは学生時代の友人たちの事ばかりだそうです。
上滝嵬(こうたき・たかし)。この人は小学校時代からの友だちです。名前は、音読みで嵬(かい)ですが、タカシと読みます。奥さんの名前は秋菜さん。秦豊吉(はた・とよきち)は、このご夫婦の事を「南画(なんが)的夫婦」と言っています。
南画は、中国の南宗画(なんしゅうが)に影響を受けて18世紀半ば(江戸時代後期)に日本で流行しました。南画は、知識人の教養の一つとして愛好され、技術よりも人格を重視する考え方で、素人でも簡単に描けるため、幕末から明治にかけて大変流行しました。
そう考えますと、南画的夫婦とは、従来の考え方に捉(とら)われない新しい形の夫婦と言う意味合いなのかなと思います。彼は東京大学医学部を出て、中国の厦門(あもい)の病院で働いています。現実的な考え方をする割には、実生活ではそうでもないと言います。
彼の子どもの名前は「みのと」と言いますが、名前をつけたのは彼のお父さんで、息子も孫も変わった名前にしています。書や歌、句などをよく作っています。
野口真造(のぐち・しんぞう)。この人も小学校時代からの友だちです。大彦(だいひこ)と言う呉服屋の若旦那ですが、余り若旦那らしくありません。品行方正で学問が好き。神経質で、自宅の門を出る時の出方が気に入らないと、もう一度家へ引き返して出直すほどです。小学時代に芥川先生と冒険小説を作っていて「僕よりも上手かったかも知れない」と言っています。
西川英次郎(にしかわ・えいじろう)。この人は中学時代からの友だちです。芥川先生はもちろん秀才ですが、彼はもっと秀才だったそうです。東京大学農学部を出て、今は鳥取の農林学校にいます。あだ名は「ライオン」或いは「ライ公」です。顔が栄養不良のライオンに似ているからです。中学時代には一緒に英語を勉強したり、柔道や水泳の稽古をしたりしました。
震災の少し前にヨーロッパから帰国して、舶来の書物を全部焼いたそうです。リアリストと言うよりも、センチメンタリズムを辞めました。鳥取の柿を送ってもらいましたが、三分の一は渋柿でした。お礼にバトラーの本をやると言って、まだ送っていません。
中原安太郎(なかはら・やすたろう)。この人も中学時代からの友だちです。あだ名は狸(たぬき)ですが、顔も性格も狸に似ていません。西川と同じくらいの秀才ですが、世間の事情には西川よりも詳しいかも知れません。菊池寛(きくち・かん)の「父帰る」を愛読しています。
東京大学法学部を出て三井物産に入り、今は独立して商売しています。適度のリアリズムを備えた人道主義者です。大儲けしたら別荘を買ってくれると先生に約束していますが、未だに買ってくれない所を見れば、そんなに儲かっていないようです。
山本喜誉司(やまもと・きよし)。この人も中学時代からの友だちで、結婚して親戚関係になりました。芥川先生の妻・文(ふみ)の母方の叔父です。東京大学農学部を出て、今は北京の三菱にいます。恋愛上のセンチメンタリストです。鈴木三重吉(すずき・みえきち)久保田万太郎(くぼた・まんたろう)の愛読者ですが近頃は余り読みません。服装などはおしゃれですが、喧嘩は負け知らず。中国で綿(わた)か何か作っているようです。
恒藤恭(つねとう・きょう)。この人は高校からの友だちです。旧姓は井川ですが、婿養子に入って恒藤になりました。冷静なる感情家です。京都大学法学部を出て助教授になり、今はパリに留学中。芥川先生が議論好きになったのは、論理的天才であるこの人に感化されたからです。
句も歌も小説も詩も絵も作る才人ですが、今は全くしていないでしょう。芥川先生は大学に在学中、島根県松江の恒藤の家にひと夏、居候した事があります。先生はその頃、恒藤におだてられて「松江紀行」一篇を作り、松陽(しょうよう)新報と言う新聞に寄稿しています。先生が平気で本名を署(しょ)して文章を公けにした最初になります。妻の名は雅子で、とても良い奥さんです。
秦豊吉(はた・とよきち)。この人も高校からの友だちです。7代目・松本幸四郎は父の弟です。東京大学法学部を出て、今はベルリンの三菱にいる善良な都会的才人です。先生の友人の中で、最も女性に惚れられますが、惚れられても大した損はしませんでした。
永井荷風(ながい・かふう)、ゴンクール、歌麿(うたまろ)らの信者ですが、この頃はトルストイの話をしたりします。ロシアの羊の毛皮で作ったアストラカンの帽子をくれる約束をしたのに、未だに何も送ってくれません。手紙を出すのに自由なのは、文壇の士として珍しいです。「ストリンドベルクの最後の恋」は、2,3日中に翻訳が終わると言います。
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藤岡蔵六(ふじおか・ぞうろく)。この人も高校からの友だちです。東京大学文学部哲学科を出て、今は法政大学にいます。多くの友だちの中で、藤岡くらい損をした男は他にいません。彼が損をするのは、理想主義者だからです。彼の祖父は、川のほとりでうずくまっている乞食を見てさぞ寒いだろうと思い、自分も下着一枚になって冬の縁側に座っていたら、とうとう風邪を引いて亡くなってしまったほど、先祖代々猛烈な理想主義です。
この理想主義を理解しない世間の人は、彼を見てやり手の切れ者だと言いますが、決してそうではなく、騙されやすい正直者の学者です。
その他、菊池寛(きくち・かん)、久米正雄(くめ・まさお)、山本有三(やまもと・ゆうぞう)、岡栄一郎(おか・えいいちろう)、成瀬正一(なるせ・しょういち)、松岡譲(まつおか・ゆずる)、江口渙(えぐち・かん)なども、学校の友だちですが、既に一度以上書いているのでここでは書きません。ただ、忘れがたき亡き友の事を付け加えたいと思います。
大島敏夫(おおしま・としお)。この人は小学校からの友だちです。先生は「自分も小学時代には頭の大いなる少年だったが、大島はもっと頭の大いなる少年だった」と言っています。この「頭の大いなる少年」と言う言葉ですが、「物事の考え方が立派だった」と言う意味なのではないかと思います。
園芸を好み、文芸も好んでいましたが、二十歳になる前に腸結核にかかって亡くなりました。どこか大人びていたところが、早くに亡くなる前兆だったのかも知れません。芥川先生はたびたび彼を泣かせては「泣き虫泣き虫」と、からかっていたそうです。
平塚逸郎(ひらつか・いちろう)。この人は中学校からの友だちです。面長(おもなが)で痩せていた事から、芥川先生と間違えられる事もたびたびあったそうです。ロマンティックな秀才ですが、岡山の高校へ入ったのち、腎臓結核にかかって亡くなりました。平塚の父は画家で、最後の作品である大きな掛け軸の地蔵菩薩を見た事があるそうです。
病気と共に失恋もして、千葉の大原の病院でたった一人亡くなった、最も気の毒な友だちです。中学の書記となって自炊生活をしていた時「夕月(ゆうづき)に鰺(あじ)買う書記の細さかな」と言う句を詠んでいます。夕月は夕方の月、特に三日月を指す事があります。
夕飯のおかずに魚屋で鯵(あじ)を買って帰る時、三日月を見て思いついたのではないでしょうか。「病気でやせ細った自分の体がまるで三日月のようだ」と言う意味でしょうか。生の鯵なら、ぜいごが骨のように見えますし、開いた鯵なら、まさにやせ細った体に見えますから、自分をあざけって詠んだ句と言えるでしょう。
彼が失恋した相手を見た事があるそうですが、今はどうしているかは知らないそうです。芥川先生はこの他にも、たびたび友人たちの事を文章にしています。今回の私の説明が正しいかどうかは保証できませんが、少しでも皆さんの理解の助けになれたなら幸いです。
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