芥川龍之介先生の書いた小説「鑑定」について考えてみたいと思います。文章の冒頭で「三円で果亭(かてい)の山水を買って来て」とありますが、この果亭と言いますのは、おそらく児玉果亭(こだま・かてい)の事かなと思います。児玉果亭は、天保12年(1841年)に生まれ、大正2年(1913年)に亡くなった明治時代の文人画家です。
芥川先生が、この果亭の山水画を買ってきて書斎の床の間に飾っていたら、遊びに来た人たちが皆それを見て「これは贋作(がんさく)じゃないか」と言うそうです。この言葉の背景にあるのは、掛け軸は一般的に贋作が多いからなんです。なので「掛け軸なんてどうせ贋作だろ」と言う見方をしても不思議ではないんですよね。
芥川先生の場合「怪しげな書画を掘り出して来る事をもって、無名の天才に敬意を払う」と言う考え方があるそうです。なので、彼らに対して「僕は果亭(かてい)だから懸(か)けて置くのじゃない。画(え)の出来がいいから懸けて置くのだ」と言い訳しています。
これに対し、それは負け惜しみだと言われ、更にはその中の一人に「とにかく、無名の天才は安上がりでいいよ」と笑われてしまいます。3円で買ったと言う事で、大正時代の1円が現在の4000円くらいと考えますと、3円なら12000円になるでしょうか。12000円ならそれほど高い買い物でもありません。芥川先生にしても、むきになって反論する気にもならないのでしょう。
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芥川先生は「鑑定家が、書画の真贋(しんがん)をどれほど正確に判断する事が出来るだろうか」と疑問を投げかけています。彼らも人間である以上、絶対的に正しいとは言えない。落款(らっかん)とか、手法、あるいは紙や墨(すみ)などの、物質的材料を見て判断します。それは一種の直感によるものだと。また、ある男が作った贋作を、本来の作者自身も見分ける事が難しかったとも言っています。
それ故に、3円の果亭(かてい)が、本物だと断言する事が出来ないとしても、同様に偽物(にせもの)だとも断言する事は出来ないのだと。だから、これが本物の果亭(かてい)だと言ってここに飾っていても、自分の不名誉になるものではない。元々、自分はただ、無名の天才に敬意を表するつもりだったのだから。そう、芥川先生は繰り返し言っています。
また、自分のように「無名の天才に敬意を払う」人々は、世間にはそんなにいないかも知れないが、大した事ない書画に大金を払う金持ちよりは、尊敬に値する人々だとも言っています。そういう、風流で上品な人たちもいると言う事を主張したくて、わざわざ活字にしたんだと言うのです。
そして最後に、芥川先生がこういう話を書いていると言って、骨董屋(こっとうや)が商売に利用する事がなければ幸いだと締めくくっています。
モノの価値と言うものは、人によって千差万別です。世界的に有名なブランド品や、巷(ちまた)で流行しているモノに価値を置く人もいれば、他人の目を気にする事なく自分が気に入ったものだけを選ぶ人もいます。値段が高い安いに関係ないのです。皆さんはどう思いますか?
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