芥川龍之介先生の書いた小説「蜜柑(みかん)」について考えてみたいと思います。この話は、一人語りの一人称小説となっています。語り部の主人公は、冬のある日暮れに、横須賀発の上り列車に乗っています。二等客車の中には、主人公の外に一人も乗客はいませんでした。出発を待つうす暗いプラットフォームにも、見送りの人影はなく、唯、おりに入れられた小犬が一匹、時々悲しそうに吠えていました。それを見ながら、主人公はこう呟いています。
「これらはその時の私の心もちと、不思議な位、似つかわしい景色だった。私の頭の中には、言いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落していた」
この主人公は、おそらく芥川先生本人でしょう。この話は、大正8年4月に発表されました。前年に大阪毎日新聞社に入社しており、出社する事なく創作に専念する日々。この年の3月には結婚して、鎌倉から東京に引越しています。「言いようのない疲労と倦怠」は、鎌倉からの引越しで体力的に疲れていたのかも知れません。
発車のベルが鳴ると、慌ただしく一人の少女が乗り込み、主人公の前の席に座ります。巻きたばこに火をつけながら彼女の様子を見て、次のように描写しています。
「油気のない髪を、ひっつめの銀杏返(いちょうがえ)しに結って、横なでの痕(あと)のある皸(ひび)だらけの両頬を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、いかにも田舎者らしい娘だった」
汚れた毛糸のマフラーを巻き、大きな風呂敷包みを抱え、しもやけの手には三等の赤切符が大事そうに握られています。下品な顔立ち、不潔な服装、しかも二等車と三等車の区別さえもわきまえない。前の席に座っているこの少女に、主人公は明らかに不快な気持ちを抱いています。
彼は彼女の存在を忘れたいと思い、ポケットから夕刊を取り出して読み始めました。汽車がトンネルに入り、電灯に照らされた夕刊の紙面には、汚職事件や死亡広告など、いつもと変わらない平凡な記事が並んでいます。トンネルの中の汽車、田舎者の娘、平凡な新聞記事、それらが全て、退屈な人生の象徴のように感じられます。これはきっと主人公が、心身共に疲れていたからではないでしょうか。
彼は、全てがくだらないと感じてしまい、読みかけた夕刊を放り出してしまいます。そして、死んだように目をつむってうつらうつらし始めました。しばらくすると、先ほどの少女が彼の隣に席を移して、しきりに窓を開けようとしています。しかし、重いガラス戸はなかなか上がりません。
彼は彼女に同情しますが、汽車はトンネルに入ろうとしています。わざわざ閉めてある窓を開けようとする考えが理解できません。ただ彼女の気まぐれだとしか思えなかったのです。だから彼は、永久に窓が開かない事を願いながら眺めていました。
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ところが、トンネルに入った瞬間に窓が開き、もうもうとした黒い煙が車内に入ってきます。気管支の弱い彼は、ほとんど息も出来ないほどに咳き込まなければなりませんでした。しかし彼女は、そんな彼の事などお構いなしに、窓から顔を出して汽車の進行方向を見つめています。
もう少しで、彼女を頭ごなしにりつけてでも窓を閉めさせようとした時、汽車はトンネルを抜けました。そして、踏切の柵の向こうに、頬の赤い3人の男の子が立っているのが見えました。彼らは汽車に向かって何か叫んでいます。その瞬間、彼女は、汽車の中から5,6個のミカンを放り投げました。
その光景を見て、主人公は全てを理解しました。おそらく少女は奉公先に向かう途中で、わざわざ見送りにきてくれた幼い弟たちに、ミカンを投げてあげたのです。それは一瞬の出来事でしたが、彼の目にしっかりと焼き付けられました。
いつの間にか彼女は、元の通り前の席に座っていましたが、彼の目には先ほどまでと別人のように見えました。間違いなく彼女は、疲れた彼の心に温かい感動を与えました。
彼女はおそらく、主人公の事など目に入っていなかったのでしょう。自分がトンネルの中で窓を開ければ、彼に迷惑がかかるなんて、想像する事も出来ないほど幼い子どもだったのではないでしょうか。だからこそ彼は、そんな幼い子どもが奉公に出ないといけない事を、哀れに思ったに違いありません。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか?
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