芥川龍之介先生の書いた小説「お時儀(じぎ)」について考えてみたいと思います。主人公は堀川保吉(ほりかわ・やすきち)。海軍の学校で英語を教える傍(かたわ)ら、小説を書いています。この保吉は、ほとんど芥川先生ご本人の事と考えて良いと思います。冒頭で「保吉は、30になったばかりである」とありますが、この小説を書いたのが大正12年9月となっていますので、ご自身は31歳の頃です。
この原稿が書かれた大正12年9月と言えば、9月1日に「関東大震災」があったばかり。先生はたびたび、震災の話を書いています。「小説を書くのに忙しく、過去を振り返っていられないほど目まぐるしい日々を送っている」と保吉の状況を説明している通り、この頃はご本人も忙しかったのかも知れません。
物語の始めのほうで「匂いの刺激によって過去の記憶が鮮やかに蘇る事がある」と書いています。そして、都会ゆえに悪臭ばかりであると。その中でも汽車の煤煙(ばいえん)の匂いは、誰でも好んで嗅ぎたい匂いではありません。でも保吉は、その匂いを嗅ぐたびに思い出すお嬢さんがいると言います。
それは5,6年前の記憶。ある避暑地の停車場のプラットホームで出会ったお嬢さん。毎日汽車に乗る彼にとっては、顔馴染みの一人。年齢は16,7歳。背は低いがすらりとしている。顔は美人と言うほどではないが愛嬌のある丸顔。彼は恋をしているわけではありませんが、彼女がいないとどこか寂しい気がします。
3月のある日、彼は勤め先から出て列車に乗りました。窓から見える風景をぼんやりと眺めながら、いつか読んだ横文字の小説に平地を走る汽車の音は「Tratata tratata Tratata(タラタタ・タラタタ・タラタタ)」、鉄橋を渡る汽車の音は「Trararach trararach(タララッチ・タララッチ)」と書いてあった事を思い出し、そう言う風に聞こえなくもないなと考えています。
避暑地に着いて停車場に降りると、少し前に着いた下り列車も止っています。すると、その汽車からお嬢さんが降りてきました。おや、と思った彼は思わず、お嬢さんにお時儀(じぎ)をしてしまいました。彼は「しまった」と思い、恥ずかしさのあまり耳を真っ赤にしてしまいます。ところが意外にも、彼女も彼に会釈をしました。
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保吉は下宿に帰らず、誰もいない砂浜へ行きました。彼は気持ちが沈んだ時にはよく、ここにやってきてパイプをふかします。明日、顔を合わせた時、彼女はどうするだろうか? 彼を不良少年と思っていれば、ちらりとも見ないだろう。しかし不良少年と思っていなければ、今日のようにお時儀するかも知れない。お時儀をした事でこんなに悩む保吉は、彼女にほのかな恋心を抱いていたのでしょうか?
翌朝、保吉は人のこみ合ったプラットホームを歩いていました。彼は、お嬢さんに会いたい気持ちと会いたくない気持ちで揺れています。そして、会った瞬間に非常識な事をしてしまいそうな不安があります。会ってすぐにキスまでしないとしても、舌を出したりあかんべーをするかも知れない。一種の破壊衝動でしょうか?
小説家に限らず、芸術家と呼ばれる人たちは皆、破壊衝動を持っている気がします。従来の古いものを壊し、新しいものを創造するのが芸術です。人々をあっと驚かせたい、そういう「いたずら心」を持っているからこそ、創作エネルギーが湧いてくるわけですから、保吉がこういう衝動を抱えている事はわかる気がします。
そして彼は、悠々と歩いてくるお嬢さんを発見しました。接近する二人は、お互いの顔を見つめています。そしてそのまま何事もなく通り過ぎようとした時、お嬢さんの目を見て彼はこう感じました。「彼女はお時儀をしたがっている」と。そう思いながら緊張していましたが、彼女は何をする事もなく通り過ぎていきました。
20分後、汽車に揺られながら保吉はパイプを咥(くわ)えていました。お嬢さんの眉毛、目、鼻などを思い浮かべながら、この気持ちはやはり恋愛と言うものだろうかと考えていました。それ以来、汽車の煤煙(ばいえん)の匂いを嗅(か)ぐたびに、彼はこの日の彼女の事を思い出すようになったのです。
そして文章の最後に、横文字の小説に書いてあった汽車の音で締めくくっています。「Tratata tratata tratata trararach(タラタタ・タラタタ・タラタタ・タララッチ)」映画のエンディングみたいで、なんだか素敵だなあと思いました。皆さんはどう思いますか?
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