芥川龍之介先生の書いた小説「女」について考えてみたいと思います。
この物語の主人公は雌蜘蛛(めぐも)、メスの蜘蛛(くも)です。「女」と言う題名から、人間の女性の話かと思いましたが、クモでした。人間の女性を「メス」と表現する事はよくありますが、人間以外の生き物を「女」と表現する事は考えた事もなかったので、さすがだなあと思いました。
季節は真夏。薔薇(ばら)の花の下にじっとしている雌蜘蛛。その薔薇の蜜を求めてやってきた一匹の蜜蜂(みつばち)。雌蜘蛛は音もなく、静かに動き出します。目に浮かぶような情景描写が良いですね。
そして「残酷な沈黙」が過ぎた後、蜘蛛は猛然と蜂の首元に飛び掛かります。それに対し、蜂は蜘蛛を刺そうとします。その時、蜂の羽ばたきにあおれらて、薔薇の花粉が日の光に舞い上がります。しかし、蜘蛛は嚙みついた口を離そうとしません。
その後、蜂は間もなく羽が動かなくなり、足には麻痺(まひ)が起こり、最後に長いくちばしが2,3度空を突きました。この場面を、芥川先生はこう書いています。
「それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった」
蜘蛛だけでなく、蜂に対しても人間と同じように表現している所が興味深いです。そして、太陽の光に照らされて勝ち誇った姿を見せている蜘蛛を、次のように書いています。
「灰色の繻子(しゅす)に酷似した腹、黒い南京玉を想わせる眼、それから癩(らい)を病んだような、醜い節々の硬まった脚、蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた」
弱肉強食が自然界の掟とは言え、圧倒的な力の差で蜘蛛に負けてしまった蜂が可哀想とさえ思えてしまうほど、醜い悪の存在として蜘蛛を表現しています。
そして、その蜘蛛の対比として書かれているのが紅い薔薇。蜘蛛は毎日、薔薇を目掛けてやってくる虫たちに対し、残虐行為を繰り返しています。薔薇は何も悪い事はしていないのですが、蜘蛛の狩りの道具として利用されているため、ダーティーな存在のようにも思えます。そのためなのか「薔薇は毎日美しく咲き狂っていた」と書いています。
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芥川先生の目には、薔薇も蜘蛛の共犯者のように映ったのではないでしょうか。だからこそ「咲き誇っていた」ではなく「咲き狂っていた」と言う表現にしているのではないかと思います。
その後、蜘蛛が巣を作り、たくさんの卵を産み落とす情景が書かれています。産後の蜘蛛は食事をする事も忘れ、やせ衰えた体を横たえたままじっとしています。しばらくして、卵から無数の新しい命が生まれてきます。老いて衰えてしまった母蜘蛛と、生まれたばかりのエネルギッシュな子どもたち。
彼らの無事を見届けると、自分の役目が終わった事を確信したかのように、静かに息を引き取る母蜘蛛。残忍なまでに蜂を殺した時とは対照的に、弱々しく描かれています。
ある意味、子どもたちによって力を奪われてしまった母蜘蛛は、彼らによって殺されたと見る事が出来るかも知れません。ちょうど、人間の女性が母になって子どもを産み、体力を奪われてしまうように。だからと言って、子どもを恨む母がいるでしょうか?
蜘蛛はたいがい、メスの方がオスよりも体が大きく攻撃的で、交尾に至る前にオスを食べようとする事もあるそうです。そう考えると「女」と言う題名で小説を書く時に、雌蜘蛛を選んだ理由が納得できる気がします。
人間の女性も、子どもを産んで育てるために強くなります。弱い存在では子どもを守れないからです。小説の最後を芥川先生はこう締めくくっています。
「天職を果した母親の限りない歓喜を感じながら、いつか死についていたのであった。あの蜂を噛み殺した、ほとんど「悪」それ自身のような、真夏の自然に生きている女は」
それまで使っていなかった「女」と言う言葉を、一番最後にもってきています。一番伝えたい言葉なのに、最後の最後まで使わずに残していたところに、さすが芥川先生と思ってしまいました。皆さんはどう思いましたか?
ご意見、ご感想などがありましたら、お気軽にお伝えください。
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