芥川龍之介先生の書いた小説「おしの」について考えてみたいと思います。「ここは南蛮寺(なんばんじ)の堂内である」と言う書き出しで始まります。南蛮寺とは、織田信長の時代に西洋人宣教師が建てた、キリスト教教会堂の事を言います。
この堂内で紅毛人(こうもうじん)の神父が一人、祈祷を捧げています。紅毛人と言いますのは、オランダ人やイギリス人など、淡い髪色の形質を持った人の多い「北ヨーロッパ系民族」です。濃い髪色の形質を持った人の多いスペイン人・ポルトガル人などの「南ヨーロッパ系民族」は南蛮と呼ばれていました。江戸時代に入って鎖国以降は、紅毛人はオランダ人の事を指していたようです。
彼の前に、30代くらいの武士の妻らしき美しい女性が現れます。彼女の名前は「しの」。息子の新之丞(しんのじょう)が大病を患い、医者に診(み)せても治らない。そこで、神父の噂を聞いて息子を助けてほしいと頼みに来たのです。
彼の仕事は魂の救いなのですが、彼女は肉体の救いを求めてきました。しかし、肉体は魂の家なので、家が修復されれば魂も救われやすい。これをきっかけに、彼女がキリストの教えを信じるようになるかも知れない。そう思って、快く引き受ける事にします。「出来るだけの事はやってみます」と言う彼に対し、彼女はこう言います。
「あなたさえお見舞いに来てくだされば、あとはどうなっても心残りはありません。あとは、清水寺(きよみずでら)の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)にすがるばかりでございます」
観世音菩薩と聞いて、神父は腹立たし気にこう言います。
「お気をつけなさい。観音、釈迦八幡、天神、あなたがたの崇(あが)めるのは皆、木や石の偶像です。真の神、真の天主は、ただ一人しか居られません。お子さんを殺すのも助けるのも、デウスの思(おぼ)し召し、一つです。偶像の知る事ではありません。もしお子さんが大事ならば、偶像に祈るのはおやめなさい。真の神を、信じなさい。真の神は、イエス・キリストばかりです。そのほかに、神はありません。あると思うのは悪魔です」
神父は十字架のキリストを指差しながら言いました。彼女は「息子の命が助かるならあなたの神を信じます」と言います。神父は彼女の姿を見て、勝ち誇ったかのようにイエス・キリストの生涯を雄弁に語り始めます。
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天使が聖母マリヤに受胎告知した事、馬小屋で生まれた事、東方の博士たちが捧げものを持ってきた事、ヨハネの洗礼を受けた事、水をぶどう酒に変えた事、盲人の目が見えるようにした事、死んだラザルを生き返らせた事、水の上を歩いた事、ゲッセマネの園で祈った事、二人の盗人と十字架に架かった事など。
そして、十字架の上で言った最後の言葉を彼女に伝えます。
「エリ、エリ、ラマサバクタニ、この意味は、わが神、わが神、何ぞ、我を、捨て給うや?」
こう言った後、彼女を見た神父は思わず口を閉ざしました。彼女の目が、冷ややかな軽蔑と憎悪に満ちていたからです。
「真の天主、南蛮の如来とは、そう言うものでございますか? 私の夫、一番ヶ瀬半兵衛は、佐佐木家の浪人でございます。しかしまだ一度も、敵の前に後ろを見せたことはございません。それを、天主ともあろうに、たとえ十字架に架けられたからと言って、恨みがましい事を言うとは、見下げた奴でございます。そう言う臆病者を崇(あが)める宗教に、何の取り柄がございましょう? また、そう言う臆病者の流れを汲(く)んだあなたとなれば、亡くなった夫の位牌の手前も息子の病いは見せられません。新之丞も、臆病者の薬を飲まされるよりは腹を切ると言うでございましょう。このような事を知っていれば、わざわざここまで来なかったのに。それだけが悔しいです」
そう言って、彼女は帰っていきました。これを読んで私は、営業のクロージングで失敗した事を思い出しました。
神父は「息子の命が助かるならあなたの神を信じます」と言った彼女が、キリシタンになるだろうと思った事でしょう。この人は「神が寄こした人に間違いない」と思ったに違いありません。そこで、得意になってキリストの生涯を話していきます。
十字架に架かったところまでは良かったのですが、最後の「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」を言ってしまったばかりに彼女を怒らせてしまいました。
この言葉は、旧約聖書の詩篇22篇の引用だと言われています。詩篇22篇はメシヤの予言であり、十字架の様子が予言されていました。この言葉を言う事によって「予言が成就した。自らが救世主・メシヤだ」と人々に知らせたかったのではないかと一般的には解釈されています。
だからこそ「イエス・キリストは、救世主・メシヤ」だと信じている神父は、この言葉を彼女に伝えたかったのでしょう。しかし、彼女はそれを理解する事が出来ませんでした。確かにこの言葉は、あまりに人間的な弱さが感じられてしまうので、私自身どう解釈して良いのかわかりません。
ただ、あの言葉さえ言わなければ、彼は息子の命を助ける事が出来て、その後に彼女がキリシタンになったかも知れません。彼女も、息子の命より武家のプライドを優先させてしまいました。どこかグリム童話の教訓めいた感じで面白いなと思いました。まさに「信じる者は救われる」でしょうか。皆さんはどう思いますか?
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