芥川龍之介先生の書いた随筆「田端人(たばたじん)」について考えてみたいと思います。これは、芥川先生が東京都北区田端に住んでいた頃に交流のあった人々の話を書いたものです。明治の末から昭和初期までの間、田端近辺に多くの文士や芸術家達が集まり、いわゆる「田端文士村」が形成されました。
1887年(明治20年)、上野に東京美術学校(現在の東京藝術大学)が出来ると、そこへ通う下宿生が近隣の田端に暮らすようになります。1901年(明治34年)に画家の小杉未醒(こすぎ・みせい)が住み始め、「田端文士村」の火付け役となりました。陶芸家の板谷波山(いたや・はざん)が1903年(明治36年)に暮らし始めます。この時代は電話もなければ、電車の本数も少なかったため、同業者は一つの土地に集まっていた方が便利だったという見方もあるようです。
下島勲(しもじま・いさお)は、田端に医院を開業したお医者さんです。芥川先生の一家は下島先生のお世話になり、書画、俳句を通じて交流がありました。空谷(くうこく)と言う俳号で俳句を詠み、同じ長野県の俳人、井上井月(いのうえ・せいげつ)の句を集めて井月句集を編さんしました。
芥川先生とは親子ほど離れていますが、年を取ってからトルストイでもなんでも読んだり、書画を愛する心は芥川先生も一目置くほどです。またとても肝が据わった方です。
香取秀真(かとり・ほつま)は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)出身の鋳金家(ちゅうきんか)です。1933年には東京美術学校教授となり、母校で多くの後進を育てました。通称「お隣の先生」と言いますから、芥川先生のお隣に住んでいらっしゃったのでしょう。正岡子規門下の「根岸短歌会」のアララギ派の歌人としても活躍しました。芥川先生は18歳年上の香取先生を、親戚の叔父さんのように思って甘えていたそうです。
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小杉未醒(こすぎ・みせい)は、芥川先生の11歳年上です。後に小杉放庵(こすぎ・ほうあん)と改名しています。洋画家であり日本画家であり歌人であり随筆家であり、更には俳句を詠んだり作詞をしたりと、芥川先生に言わせれば「呆(あき)れはてたる器用人」だそうです。
鹿島龍蔵(かしま・りゅうぞう)は芥川先生の11歳年上で、現在の鹿島建設である鹿島組の組長だった鹿島精一の義理の弟であり、鹿島組の理事長を務めた実業家です。田端文士村に住んで、文士や美術人の間で活躍しました。芥川先生は、鹿島龍蔵のいろんな分野に通じる多芸ぶりを尊敬していたわけではないそうです。「僕の尊敬する所は、鹿島さんの「人となり」である」と言っています。
室生犀星(むろう・さいせい)に関しては、何度も書いているので今更、言うことはないと言っています。「只、僕を僕とも思わず「ほら、芥川龍之介、もういい加減に猿股(さるまた)をはきかえなさい」とか「そのステッキはよしなさい」とか、いらない世話を焼く男は余りほかにはいない」と書いています。
久保田万太郎(くぼた・まんたろう)は、東京府立第三中学校では芥川先生の一級上で、この人もまた言う事はないと書いています。久保田万太郎は酒が好きだけれども、ナマコの内臓の塩辛である「このわた」を食わず、からすみを食わず、イカの黒作りを食わないので、酒を飲まない自分よりも味覚が進歩しないのは気の毒だと言っています。
北原大輔(きたはら・だいすけ)は2,3歳年上ですが、顔を見ただけで憎らしいそうです。美術学校出身の画家ですが、もし芥川先生と同業だったとしたら、この人の模倣ばかりするか、あるいはこの人を殺したくなると言っています。どんな人だったのか、とても気になりますね。
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