取材でギャラを求めず食事代まで払ってくれた樹木希林さん

亡くなった樹木希林さんは、取材でギャラを求めず、それどころか食事代まで払ってくれたそうです。

「樹木希林さんはギャラ求めず、取材中の食事代まで払ってくれた」不登校新聞編集長が明かす

連載「ぶらり不登校」
石井志昂2018.9.30 09:00dot.

 30日に告別式が行われる女優・樹木希林さん。その生き様や口にしてきた言葉たちがこれほど胸に響くのはなぜなのだろう。10代、20代の不登校・ひきこもり当事者とともに、樹木さんに3時間のインタビューをした『不登校新聞』の編集長・石井志昂さんが追悼の思いを込めてつづる。

*  *  *

「人生でずっと励ましになるだろう言葉の数々でした」

 女優・樹木希林さんのインタビュー記事を『不登校新聞』に掲載した直後、読者の方からそんな感想をいただきました。

私たちが樹木希林さんに取材をしたのは2014年7月24日。がんを克服するのではなく「引き受けていく」という樹木さんの死生観は、きっと不登校やひきこもりなど、生きづらい私たちに響くものがあるのではないか、と思い取材をお願いしました。

 取材までのやり取りも、樹木さんは噂どおりの人でした。ご自身で私の携帯に電話をかけてきて「いつ死ぬかわからないから明後日でもいい?」とすぐに日程を決め、ギャラは求めず、取材中での食事代まで払っていかれました。

インタビュー中は、私といっしょに取材した10代~20代の不登校経験者には終始、気を遣いながら、約3時間のインタビューでした。その間、樹木さんが文句を言われたのは一点だけ。私が送付したFAXの枚数が多かったので「インクリボンがなくなっちゃった」ということ。似たようなエピソードは他でも聞いたことがありますが、物をムダにされるのが本当に嫌だったようでした。取材当日に来ていた服も「これ、もらいものを自分で縫ったのよ」と話していました。

 同行した不登校経験者はいま、当時をふり返って「なんておもしろい大人がいるんだと思った」「軽やかなのに言葉に凄味があった」と話しています。なかでも高校1年生から不登校になり、定時制高校などに通ったものの5年ほどひきこもり経験していた当時20代の女性は、樹木さんのこんな言葉が今も忘れられないと言います。

「自分をよく見せようとか、世間様におもねらなければ楽になるんじゃないでしょうか。だいたい他人様からよく思われても、他人様はなんにもしてくれないし」

 そう樹木さんから言われたとき、女性は自分自身の生きづらさは、他人からの評価に依存しているからだと気付かされたそうです。

 樹木さんの言葉が、こうも胸に響くのは、樹木希林の生き様と言葉にウソがなく、誇張や説得を試みるような言葉ではないからかもしれません。そして言葉遣い、樹木さん流に言えば「言葉の置き所」が粋なのも魅力的でした。

 何度読み返しても私自身、いつも発見があるインタビューです。9月30日は樹木希林さんの告別式。もう一度、このインタビューをたくさんの方に読んでもらえたらと願っています。

「あのね、話したことはあなたの好きに使って、いちいち断んなくていいから」

取材の最後の樹木さんの言葉の通り、ここに再録します。
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*  *  *

石井志昂(以下・石井):今日はありがとうございます。まずは一番気になっていることからお聞きします。なぜ『不登校新聞』に出ていただけるんですか?

樹木希林(以下・樹木):いやあ~、こんな新聞があるんだな、と。私も年を取りましたけど、まったく知りませんでしたから。最近はほとんど取材を受けてないんですが、ぜひ新聞をつくっている人に会えたらと思ったんです。ただ、読んでみたらなんてことはない、私もその傾向があったなと思います。小さいころからほとんどしゃべらず、じーっと人影から他人を見ている、自閉傾向の強い子でした。当時は発達障害なんて言葉はなかったけど、近かったと思います。

石井:私が取材したいと思ったのは、映画『神宮希林』のなかで、夫・内田裕也さんについて「ああいう御しがたい存在は自分を映す鏡になる」と話していたからなんです。これは不登校にも通じる話だな、と。

樹木:あの話はお釈迦さんがそう言ってたんです。お釈迦さんの弟子でダイバダッタという人がいます。でも、この人がお釈迦さんの邪魔ばっかりする、というか、お釈迦さんの命さえ狙ったりする。お釈迦さんもこれにはそうとう悩んだらしいですが、ある日、「ダイバダッタは自分が悟りを得るために難を与えてくれる存在なんだ」と悟るんです。

 私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、私にとってはありがたい存在です。ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、難が有る、と書きます。人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら成熟していくためなんじゃないでしょうか。

今日、みなさんから話を聞きたいと思っていただけたのは、私がたくさんのダイバダッタに出会ってきたからだと思います。もちろん私自身がダイバダッタだったときもあります。ダイバダッタに出会う、あるいは自分がそうなってしまう、そういう難の多い人生を卑屈になるのではなく受けとめ方を変える。自分にとって具体的に不本意なことをしてくる存在を師として先生として受けとめる。

受けとめ方を変えることで、すばらしいものに見えてくるんじゃないでしょうか。

石井:そう思うきっかけはなにかあったのでしょうか?

樹木:やっぱりがんになったのは大きかった気がします。ただ、この年になると、がんだけじゃなくていろんな病気にかかりますし、不自由になります。腰が重くなって、目がかすんで針に糸も通らなくなっていく。でもね、それでいいの。こうやって人間は自分の不自由さに仕えて成熟していくんです。

若くても不自由なことはたくさんあると思います。それは自分のことだけではなく、他人だったり、ときにはわが子だったりもします。でも、その不自由さを何とかしようとするんじゃなくて、不自由なまま、おもしろがっていく。それが大事なんじゃないかと思うんです。

石井:なるほど、それでは樹木さんがどんな子ども時代を送ったのかを、お聞きしてもいいでしょうか?

樹木:私が生まれたのは昭和18年1月15日、戦争の真っ最中でした。生まれたのは神田の神保町。母親はカフェをやっていて、父親は兵隊にとられていました。何度も住む場所を変えながら暮らしたそうです。記憶に残っているのは、青梅街道のバラック街。見渡すかぎりのバラックのなかで、幼少期をすごしました。私が4歳ごろのある日、中2階の布団置き場で遊んでいたんです。

 そしたら、そこから落っこちてしまったんです。打ち所が悪かったんでしょうね、それからというもの毎晩おねしょをするようになりました。たしか10歳ごろぐらいまでは続きました。だから、私の家では毎朝、布団を干していたし、友だちの家に泊まりに行くときはビニール持参(笑)。

 それ以外で記憶にあるのは、いつも友だちがいなかったこと、一人で遊んでいたこと、幼稚園に通うのがイヤだったこと、スポーツが苦手だったこと、人とはほとんどしゃべらなかったこと。しゃべらないのは近所でも評判でね。私がテレビに出始めたとき、まわりはだいぶ騒いだそうです。ほとんど声を聴いたことがないのにって(笑)。

 今ふり返ってみるとポイントだったと思うのが、小学6年生の水泳大会のとき。小学校6年生となれば、背泳ぎだ、クロールだ、とみんなすごいでしょ。私はからっきしダメ。なので水泳大会の「歩き競争」に出されたんです。プールのなかを歩いて向こう岸まで競争するレース。つまり、泳げない子たちの特別な競走で、私以外は小学校1年生~2年生ぐらいのレースでした。

 歩き競争が「よーい、ドン」で始まると、小っちゃい子たちがワチャワチャやってるなか、私だけすぐゴール。断トツの一等賞よ、なんせ身体が天と地ほどもちがうんだから(笑)。でもね、表彰式で私ニンマリ笑ったらしいの。私も誇らしかったのを覚えています。これが私の財産なんです。まわりと自分を比べて恥ずかしいだなんて思わない。おねしょだって恥ずかしいとは思ってなかった。こういう価値観を持てたのはありがたかった。勝因とさえ言ってもいい。これはもう親の教育に尽きますね。親がえらかった。

 思い返せば、うちの両親はとにかく叱らない親でした。「それはちがうでしょ」と言われた記憶がない。記憶にあるのは「あんたはたいしたもんだよ」と言われたこと。子どもってヘンなことを言うでしょ、ヘンなこともやるでしょ、それをいつも「たいしたもんだよ」と両親は笑ってる(笑)。子どもを見ているヒマのない時代でしたが、ふり返ってみれば、それでもえらかったなと思うんです。

石井:私の祖母も「誰かと自分を比べるような、はしたないことはダメ」と言ってましたが、その一言は、不登校だった私を支えてくれました。

樹木:そう、そういうことを昔の女性は言えたの、ホントに立派だわ。こう言っては悪いけど、そこらへんのおばあさんでしょ。お坊さんでもなんでもない、ただのおばあさんが「比べるなんてはしたない」と言えるんだもの。

石井:樹木さんが親になられてからも「叱らない」というのは気をつけていましたか?

樹木:干渉はしなかったです。気にしていたのは食べることだけ。どんなにまずくても、そこらへんのものでは間に合わせず、自分たちでご飯を出していました。でも、それだけですね。

石井:お孫さんがいらっしゃるんですよね?

樹木:しょっちゅう迷惑をかける孫がいるんですよ。よく親のほうが鍛えられてます(笑)。

 まあ娘にも言ってるのが、「そのうち、ちゃんと自分で挫折するよ」って。まわりはやきもきするけど、あれもこれも親が手を出してあとから「たいへんだったんだから」と言うよりは、本人に任せていくほうがいい、と。

子ども若者編集部メンバー:話は変わりますが、私は人間関係で難しいな、と思うことがよくあります。どうすればいいのでしょう?

樹木:それはへんなかたちで自分を大切にしているからでしょうね。これも親の教育の賜物で、私は自分の評価にこだわらなかったから、本当に自分をぞんざいに扱ってきました。というか、人と揉めるのがへっちゃらなの。たとえば人から贈り物をいただく。でも、だいたいの贈り物って始末に困っちゃう。だから、贈り物に「いりません」って書いて送り返したりしているんだから(笑)。

子ども若者編集部メンバー:すごい(笑)

樹木:どうぞご放念くださいってやつよ。まあ、そのせいでだいぶ苦労してきましたけどね。一度、女優・杉村春子さんに収録現場で「へったなの」って言ったこともあったから。

一同:ええっ!!

樹木:映画監督・小津安二郎さんの映画だったんだけど、何度もNGが出るから、「なんだよ」って思っちゃたのよ。まあ、そういうように人とぶつかるのが苦じゃなかったの。小さいころから変わっていて、若いころもそんなんだから「なんだか生きづらいな」と思っていましたが、楽は楽よ。ガマンとか辛抱とか、そういう記憶がないんだもの。

 あなたも、自分をよく見せようとか、世間様におもねらなければ楽になるんじゃないでしょうか。だいたい他人様からよく思われても、他人様はなんにもしてくれないし(笑)。

子ども若者編集部メンバー:僕は小学校6年生で不登校をして5年間、ひきこもっていました。自分が不登校だったことを、なにか活かせないかと考えているんですが、どれもこれもうまくいかないんですね。

樹木:計画性があるから挫折するんでしょうね。夢を持つのは大事なことなんだけど、そこに到達できなかったからって挫折するのはバカバカしいことじゃない。方向を変えればいいの。もし、どうしようかと迷ったら、自分にとって楽なほうに道を変えればいいんじゃないかしら。

子ども若者編集部メンバー:ただ、この前も成人式に行ったら、友人は大学に行ったり、働いていたり。どうしても自分とまわりを比べてしまうというか……。

樹木:わかる。私もデパートガールを始めた同級生がものすごく輝かしく見えていたから(笑)。私が18歳のとき、行くところがなくて劇団「文学座」に入ったんです。今もそうだけど劇団員なんて先が見えない仕事でしょ。まわりが銀行員になったり、大学に行ったりする。花が開くと思われた4月に自分はなにもない。おまけにまわりの劇団員はみんなキレイ。「取り残された」っていう実感はそりゃあもうリアルでしたよ。

 でも、いま考えればバッカみたいだけど(笑)。

 この地球上にはおびただしい数の人間がいます。人間として幸せなのは適職に出会うことです。自分がこれだと思うことに仕えられるほど幸せなことはありません。もちろん、たくさんのお金を儲けたから適職ってことじゃないし、仕えるのは会社ともかぎりません。そういう、「これだ」と思える適職に出会えた人は一握りしかいないんです。つくづく私も「芸能界には向いてないな」って思うんです。まあ、もうこの年になったら向くも向かないもないんだけどね(笑)。

 だから、あきらめるしかないんだけど……って、あなたの質問にちゃんと答えているかしら?

子ども若者編集部メンバー:たしかに大学に行った友だちが「あんまり楽しくないぞ」と言ってました。

樹木:そういうもんなの。あなた、このなかで一番ハンサムだから。別に好きでその顔に生まれたわけじゃないと思うけど、その顔で生まれなかった人からすればうらやましいはずよ。その顔を活かすのに命を懸けたっていいじゃない。

 私は、よく思うんだけど、誰だってチャーミングなところがあるのに、ほとんどの人がそれにふたをしちゃってるんです。たとえば、俳優の小林亜星さんっているでしょ。ドラマ『寺内貫太郎一家』(74年放送)を始めたとき、私たちが主役は小林亜星さんがいいって言ったのよ。亜星さんなんて太ってるぐらいしか取り柄のない人でしょ。

一同 いやいやいや(苦笑)

樹木:あの人はホントに太っている人のよさをすごくわかっている。所作がちがう。ああいうのが大事なの。今や、女優もアナウンサーも、最近じゃスポーツ選手もみんな同じ顔だからね。同じような顔に同じような服を来て、それで若い女優さんは「役が来ない」ってこぼすんだから、もうこっちはケンカ腰よ(笑)。

石井:最後に自分の子どもが不登校やひきこもりだったら、つまり、御しがたいダイバダッタのように見えたら、親としてどう向き合えがいいのかについて教えてください。

樹木:うん……、きっと自分だけが助かる位置にいちゃダメなんだろうと思います。自分も降りていかないと。夫は「不良になるのも勇気がいる」と言ってましたが、道を外すのも覚悟がいることです。親も子も今の環境や状況を選んだわけじゃないだろうし、そうならざるを得なかったのかもしれません。でも、それはそれで親子ともどもいっしょにやっていこう、と。路上でもいっしょに生活しようという覚悟を私ならすると思うんです。いっしょに住んでいる人はホントにたいへんだと思いますが、結局、親はその子の苦しみに寄り添うしかないです。言って治るようならとっくに治っています。最初の話に戻りますが、自分が成熟するための存在なんだと受け取り方を変えるのがいいのではないでしょうか。

石井:なるほど

樹木:最後になっちゃったけど、この新聞はたいへんなお仕事だと思いますが、かならず救われる人がいると思いますし、ぜひがんばってください。もちろん自分にとってもいい出会いができると思います。今日はどうもありがとうございました。 

一同:こちらこそ、本当にありがとうございました。

(2014年12月15日『不登校新聞』掲載)

[出典:「樹木希林さんはギャラ求めず、取材中の食事代まで払ってくれた」不登校新聞編集長が明かす(AERA dot.(アエラドット) > https://dot.asahi.com/dot/2018092800052.html?page=1 ]

素敵な人ですね。
「だいたい他人様からよく思われても、他人様はなんにもしてくれないし(笑)」の言葉が好きです。

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