ようやくひと息つける休日に、ぶらぶらと街を歩く。ふと見つけた、体験レッスンの看板。トラウマの記憶を塗り替える、良い機会になるかも知れない。立ち止まったまま、過ぎ去った日々を思い出す。
二十代だった頃、こわぁああい教授に指導された「とりあえず単位取得」のピアノ。一緒にレッスンをしていた学生はみんな、幼少期から嗜(たしな)んできたお嬢様。正統派庶民の私はバイエルから始め、教授をいらつかせるのは仕方ない事だと諦めてはいたが、友人の助けがなかったらきっと、心が折れていただろう。
今も二十代の美しい友が聴かせてくれた『月光』……。
「上手じゃないけど。私の好きな曲なの」
陽が傾き仄暗くなった部屋で、そよふく風の如く告げた後、陰る紫色の鍵盤を、細く長い指が、踊る様に滑らかに正確に、美しくもの悲しい旋律を奏で始めた。ふわりと揺れる長い髪と色白の彼女を、窓から差し込む光がオレンジ色に染めているのが、まるで彫刻の様に美しい。
一瞬、部屋全体がオレンジ色の音の波に包まれ、心地良く揺らぐような錯覚に陥ったあの感覚が忘れられない。
「これは打弦楽器。楽しむための器なの」
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彼女は楽しそうに、微笑みながら教えてくれた。一緒にいた時の何倍もの時間が流れた今、私には彼女の笑顔と言葉だけが残っている。心に残る曲。私の中で、彼女に勝る月光の奏者はいない。今日の講師はどこか、彼女に似ている。
ほんの少しの時間、電子ピアノで私に合ったとても簡単な曲だったけれど、楽しかった。音を楽しんでこそ「音楽」。音が聴こえるなら、国も言葉も時間も越えられる万能ツール♪
懐かしい日々を今、かみしめる。
帰り道、彼女が好きだったイチゴのスイーツを見つけた。
「子どもっぽいでしょ? でも、私くらい子どもっぽいと、楽器ちゃんも親しみをもってくれるのよ」
そう言って、私のパフェに自分の苺を乗せてくれたあの日。
「苺なら同じようにつまめるのに……」
「頭のいい子の発想って面白い!」
もらった苺を頬張りながらぼやく私に、彼女は声をあげて笑った。
今年もきっと、彼女の傍らの白い秋桜は、風の五線譜に合わせて優しくメロディを奏でている事だろう。陽ざしがオレンジ色の光を放つ頃、彼女の香水が香って笑い声が聞こえた。東の空にゆらりと顔を出した月が、薄い光を放っていた。
作:イーチョン
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