ドラックストアにマスクと頭痛薬を買いに行くと、少し離れた場所に可愛らしいカップルが来た。
「マスクで隠れるけどさ。女は唇だよ。キスしたくなる唇ってあるんだよなぁ」
誰を思っているのか、遠い目をしている男の子。
「キスしたくなる唇ってなんなの」
リップコーナーをガン見して、憮然とする女の子。
「なんちゅうかなぁー。つやつやして、ぷるんとして、そそるやつ」
これまたあからさまに夢見がちな表情で即答する男の子。かわいい会話だ♪ 思わず笑いながら、自分用の薬用メンタムリップをカゴに足し入れた。
小学3年の頃、よく約束事を無視する男子がいて注意したらこう言われた。
「学習委員長だかクラス委員長だか知らねぇけどお前、先公みてぇにウルセンダヨ! そのうるせぇ口にちゅーしてやるか?」
クラスが騒然となり、怒りと恥ずかしさでみんなの前で泣いてしまったが、その日の帰りのホームルームで問題提議する子はいなかった。
中学転校初日、学校からの帰路に迷った。
「迷子かよ?」
同じクラスだと名乗る男子が、路地裏の近道を案内してくれた。急な雨に、坂道で傘を差したら笑われた。
「お前、ここの地形わかってねぇなぁ。傘は坂道では、前方に突き刺すように傾ける!」
道幅が狭く、その子は泥が付かないようにと、カバン越しに肩や腰を引き寄せてくれた。
「おまえのシャンプー、いい匂いだな」
鼻と口が近い。触れそうでドキドキした。次の日、黒板に書かれた大きな相合傘には、自分とその子の名前。その後は口を聞いてもらえなかった。苦い思い出が蘇る。
念願の高校に通い始めて間もなく、父の転勤が決まった。その中学から入学した女子は私ひとり。恩師が自宅を下宿として提供すると説得にあたってくれたが、父は首を縦に振らず「ネームバリューなど実力があればどうでもいい」と言い放った。
編入試験も受けなければならず気落ちした私に、母が1カ月間だけ【塾】を勧めた。習い事をしたことがない私は面食らい、気休め程度だと内心どうでもよく思ったが、母の想いを酌んだ。
個別指導の特進担当は大学生だった。「余裕だよ」と優しく励ましてくれたが、私は笑顔を見せなかった。彼が優しく笑うほどに薄っぺらく思えて、はす斜めに冷ややかに見ていた。ある日、唐突に訊かれた。
「君には彼氏とかいる?」
「なぜですか?」
「転校で別れるとかあったら辛いだろうと思ってさ」
「いないです」
「今日はここまで。ね、見て!」
いきなり立ち上がって、長机の間で親指と人差し指で指立て伏せを始めた。
「あの、君の顔がボーリーングの0ピンスコア票になっているけど。こう見えて、十字懸垂も出来たりする」
こちらを向いて言った途端、顔面をフロアに強打した!
「ちょっと、先生! 大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫だ」
鼻血を流している。痛そうなのに、つい笑ってしまった。
「おお、初めて顔が変化した!」
急いでティッシュを渡した後、濡らしたハンカチを手渡した。
「ほぉ、そんなこともしてくれるんだ」
「人でなしじゃありません」
「小生意気なクソガキと思っていた」
「鼻つっぺのほかに、口つっぺも作ります」
「窒息させる気だ! こわ!」
「それでも先生ですか?」
「先生の前に人間だからね。言葉のラリーがないと辞めたくもなる」
「お詫びの気持ちがこみあげるだろう?」
「月謝は払っています!」
「それは親御さんだろ? 明日の課題は、魚研究とパフェ試食。どちらも、先生ひとりで行けない場所だ。付き合え」
そう言って、時間と待ち合わせの場所のメモを渡された。
走り回る子ども達の合間を縫って売店に向かったが、つまらないので水槽に戻った。チンアナゴを見ていると、鼻が紫の背の高い先生に声をかけられた。
「面白いねぇ」
「はい。面白いです」
「いや、ミミズみたいなのを熱心にみている君の様子が興味深い」
野外の海獣ゾーンを見下ろしながら、先生がぼそりと言った。
「腹違いの妹がいたのだけどね。海で溺れた。それ以来、あまり海を見ない」
「私と同じくらいの年齢ですか?」
「あぁ。だけど、可愛げがあったし、よく笑った」
遠い目で言った先生は、泣いているように見えた。そうか、私は今日は妹さんの代わりなのか。
「同情するなよ。ラーメン食ったらパフェだぞ」
「先生薄給でしょ?」
「それが、短期間で儲け甲斐のある生徒を最近担当してね。しかも、塾を知らない珍しい親子でさ。質問もしてこない無口な子でつまらないが、楽してお金もらってる」
そう言って、にんまりと笑った。
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往来する船や灯台が望める最上階のレストランでパフェを食べる時、餡子(あんこ)を用心深く取り除いた。
「もしかして、餡子苦手なのか?」
「食べようと思えば食べられます」
「なんで同じもの注文したんだ! 楽しくも美味しくもないだろう」
そう言って、自分の器にざっくりすくい上げた。
「迷った時は相手と同じものを注文するとデートした友達にききました」
「おい! これ【デート】なのか?」
含み笑いで囁く先生。
「そうは思っていません」
そう言っても、顔の火照りはひかない。
「ここにくる約束だった。人も少ない入りやすい店なのに、いつも今度にしていた」
独り言のように言われてどう反応したらいいのかわからず、履きなれないプリーツスカートに両手を置いて下を向いていた。バレッタがずれ落ちてきて直そうとする私を見てこう言った。
「ちゃんと女の子なのね、君。クソガキ撤回するわ」
顔を上げた先生を見て、初めて八重歯がある事に気付いた。
「あ。俺、ドラキュラってあだ名つけられたの。この歯のせいでさ。だとしたら今夜は満月だしダウンだな」
「え? ドラキュラって、ニンニクと十字架の他に満月もだめなんだ。狼男と違うんだ」
「読んだことないのかよ?」
「うん」
「君は知識アンバランスだな!」
話は意外と楽しい。
「唇がかさついてよく出血するけど、ドラキュラとは程遠い人畜無害そのものなのになぁ。ほら、痛そうだろ?」
唇を突き出す様子がハリセンボンみたいで笑ってしまう。鞄からメンタムリップを出して、先生にぐりぐり塗りつけた。
「おい! 君のリップじゃないのか?」
「新品未使用なのであげます。今日は鼻血用の綿花はありません」
「いきなりリップを塗り付けた失礼行為にて、そのリップを自身が全部使う刑を処する」
そう言って、鞄に戻された。
「捨てるなよ! 高い月謝の塾生のご身分なんだから!」
売店で星の砂を見つけ、夕日にかざしてみる。
「沖縄のものかぁ」
「植物プランクトンの死骸。なに、ありがたがってんだよ。欲しいのか?」
首を横に振って小瓶を戻した。
「買い物あるから、向こうで景色眺めていてもらえる?」
その後、腕時計を見てこう言った。
「そろそろ課外授業も終了の時間だな。足が疲れた。エレベーターにしよう」
海が見える。
「悪いけど、海が見えないように俺の前に君が立ってくれる?」
ガランとした小箱がゆっくり降下し始めた時「ごめん」と言って、後ろの人がもたれかかってきて肩を抱く。
「先生? 気分悪いですか? 降りますか?」
「いや大丈夫。少しこのままでいて。陽射しと海とドラキュラのせいだから忘れろよ」
そう言われた瞬間、首筋がチクリとする。
「か、噛んでます?」
「うん。気付け薬。これ、お詫び」
小瓶を背後から差し出された。
「さっきの星の?」
「うん」
「死骸って言ってたじゃないですか…」
後ろを振り向いた時、柔らかいものが唇に当たった。何が起こっているのかわからなかった。目を閉じる間もなく、その人の二重瞼がぼやけて見えた。
「ファーストだったら、ごめんな。セカンドにしといてくれ」
くるりと向きを変えて、扉を背に【閉】のボタンを押したまま「目閉じて」ともう一度繰り返す。力が抜けて、壁側で良かったとぼんやり思った。
翌日から塾の担当が変更された。担当者の不調という事で、月謝は値引きされたらしい。どこに行ったのかもわからない。
メンタムリップを使うドラキュラは実在する。
カップルを横目にレジを済ませてから リップをぐりぐりと塗ってみた。
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