バタンっと大きな音が二階から聞こえたと思ったら、ドンドンドンっと地響きが続く。カレンダーを確認すると金曜日、壁掛けの時計は午後八時を指している。「あれか……」僕はすっかり忘れていたけど、毎週必ず起こる光景が曜日と時刻を知らせてくれる。
「お兄ちゃん、テレビテレビ、あれ観なきゃ!」
「わかったよ。あれでしょ」
それまで何となく観ていた教養番組のチャンネルから、彼女の好きな歌番組のチャンネルに変える。ふと振り向くと、キッチンで洗い物をしていた母が含み笑いをしている。僕は思わず、欧米人のようなジェスチャーをして肩をすくめた。
兄として、妹にチャンネルを譲(ゆず)るのは当然だろう。たとえ自分が先に観ていたとしても。それに、これを観ないと死んでしまう訳でもない。ただ少し知識が増えるだけの事。余計な知識よりも、国数英理社の問題の答えを頭に入れる方が受験生として賢い選択だ。
いつの間にか隣に座って、お気に入りのスヌーピー柄のグラスを用意している美樹。僕を下から見上げるようにして口角を上げている。「これか……」コースターの上で汗をかいている僕のカルピスが欲しいのか。僕は黙って笑い返し、まだ一口も飲んでいないカルピスを半分分けてあげた。
「ありがとう、お兄ちゃん大好き!」
抱きつかれて、彼女の胸のふくらみが勢いよく押しつけられる。「あっ、いや……」中学二年生ともなれば、男女の性の違いを認識してもらいたいものだ。いくら兄妹だとは言え、思春期の男女である。男子中学生の頭の中は、女体への関心でいっぱいなんだよ。
「やったー! りゅうくんが出る!」
僕の心臓が不規則な拍動を起こしている事も知らずに、大好きなアイドルの登場に両足をばたつかせて喜んでいる。「おいおい……」そんなにやると、短いスカートから白いものが見えるじゃないか。だから、思春期の男子なんだってば。そう言いたいけど言えない。
がちゃっと音がして、「ただいま」と大きな声が聞こえてきた。「やばい……」夢中になって画面を凝視している美樹の横で、これからこのリビングで起こる未来の情景が僕の頭の中で瞬時に展開された。
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ドタドタドタっと廊下から聞こえてくる足音。美樹のドンドンドンも父親の遺伝なのだろう。そう思うと少し笑えてくるが、これから起こる惨劇を思うと笑えなくなる。ガチャっとリビングのドアが開き、再び「ただいま」と大声が響いた。
こんなに近くにいるのに、そんな大声出す必要があるの? しかも心地良く歌を聴いていたのに、耳障りな音で遮(さえぎ)られた年頃の娘の気持ちはどうなるの? あんたそれでも可愛い娘の父親か? そう言いたいけど言えない僕は、黙って委縮するだけだ。
「何だ何だ、こんなの見てるのか? あれだよあれ、あれ見せてくれよ」
この年代の人は「あれ」が多い。「あれか……」もちろん言わなくても僕はわかっているし、人一倍勘の良い美樹だってわかっているはずなのに、あえて彼女は気づかないふりをしている。氷で冷えたスヌーピーのグラスを両手で挟み込んで、ちびちびとカルピスを喉に流し込みながら、流行(はやり)の歌に聞き耳を立てていた。
母の邪魔にならないように器用に体をくねらせながら冷蔵庫のドアを開き、お目当てのものを探しているようだ。「ないないない、ないぞ!」見つからない「あれ」に苛立ちを覚えながら、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた冷蔵庫の中を捜索している。
僕は心の中で「あってくれ」と祈っていた。会社から帰ってきてビールが冷えていないと、途端に父の機嫌が悪くなる。「あった! 一本あった!」子どものように無邪気に喜ぶ姿を見て、安堵の溜息をつく僕と母。美樹はそんなの「我関せず」である。
まずは第一関門突破だった。次はいよいよ第二関門。「美樹、野球見せてくれよ」気持ちの悪い猫なで声が耳に届く。当然、美樹は聞こえないふりをしている。大体、父が帰ってくるとチャンネルは野球に変わるのがこの家の常識だ。美樹とてそれは重々承知している。
しかし、今日は金曜日。しかも「りゅうくん」が出る日だった。美樹の頭を縦に振らせるのは容易ではない。少しずつ、父の表情が曇り始めていく。僕に「何とかしろ」と合図を送っている。争いごとが嫌いな僕は父の機嫌を損ねたくない。
僕はテレビ台を指差しながら、美樹の耳元で「ビデオで録画しているから後で観たら?」と囁(ささや)いた。赤い点灯は録画中の証拠である。美樹は渋々納得し、父にリモコンを渡す。「悪いね」と意地悪そうな表情を浮かべながら、父は野球中継に変えた。
再び第三関門がやってきた。巨人が負けていると、父の機嫌は途端に悪くなる。「勝っていてくれ」僕はそんな祈りを捧げてスコアを確認する。試合半ばで八対一の大量リード。「今日は勝てるぞ!」嬉しそうにビールを口にする父に、安堵の溜息を漏らす僕と母。
そんな父を尻目に無言で立ち上がり、無表情のままリビングを出て行く美樹。彼女の感情のアフターフォローのため、僕は慌てて後を追った。
リビングを出て廊下を進み、右手の洗面所にいた美樹の様子を伺う。綺麗好きな母によって揃えられた家族の歯ブラシの中から、父が使っているものを選ぶと床にしゃがみ込んだ。「えっ……?」隅っこのいかにも汚そうな場所を選び、父の歯ブラシを擦(こす)りつけている。
その横顔は嬉々としており、夢中でアイドルのステージを観ている時のような表情を浮かべている。一分ほど続けていたその作業を終え、証拠隠滅のために丁寧に水洗いをした。ちょっと見では、床掃除をしたようには見えない。相手に気づかれないように復讐を果たす。まさにプロの業(わざ)である。
「黙っててね、お兄ちゃん」
いきなり振り向いたかと思うと、天使のような無邪気な笑顔を見せる美樹。「彼女を怒らせてはいけない」その教訓を胸に深く刻んだ瞬間だった。
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