ここは銀座の八丁目。高級クラブが点在する大人の歓楽街。今日もまた、迷える一匹の子羊が、クラブ「紫陽花(あじさい)」のドアを開くのである。
「ようこそ、いらっしゃいませ、岡田様。お久しぶりでありんすね」
「ママ、困った事が起きてね」
「わかりんした。早速、お話を聞かせていただきんしょう」
クラブ「紫陽花(あじさい)」の朝霧(あさぎり)ママは、江戸時代の花魁(おいらん)の生まれ変わり。現代人とは一味違った感覚で、世の殿方の悩みを一刀両断するのだった。
「女房に浮気が見つかってしまった」
「浮気でありんすか?」
「探偵を雇って決定的な証拠を撮られてしまった」
「逢引きの現場を見つかったわけでありんすね 」
「もう別れるって大騒ぎなんだよ 」
「たった一度の浮気で別れるだなんて、そんな了見の狭い女子(おなご)とは別れてしまいなんし」
「いや、それがねえ、私は婿養子なんだよ。妻の父親が経営する会社の跡取りとして結婚したから、離婚したら家を追い出されてしまうんだ」
「そうでありんすか。そんなら、男裸一貫、ゼロからやり直したらいかがでありんすか?」
「そうは言ってもねえ……。この歳でやり直すのもちょっと……。確かに、男らしく啖呵を切って飛び出したいところなんだけど……。」
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岡田の煮え切らない態度に、朝霧のはらわたは煮えくり返るようだった。遠い昔、私を裏切ったあの男。夫婦(めおと)になる約束を交わしたのに、遊ぶ金欲しさに女郎屋に売り飛ばしたあの男。思い出したくもないあの男の顔が、岡田の顔に重なって浮かび上がる。みるみるうちに頬を紅潮させながら、朝霧は思わず声を張り上げてしまう。
「やいやいやい、あんたそれでも玉つけてんのかい? 男なら男らしくしたらどうなんだい? 女房が怖いんでありんしたら、最初っから浮気なんかよしなってんだ! てめえがやった事の落とし前ぐらい、てめえでつけたらどうなんだい!」
朝霧のあまりの剣幕に、しゅんとうな垂れてしまった岡田。これはちょっと言い過ぎたと反省した朝霧は、一転して優しい言葉で話し始めた。
「岡田様、先ほどは言い過ぎたようで、大変失礼いたしんした。ここは奥様に、平謝りなさったらいかがでありんしょかえ? 頭を地面に擦(こす)りつけて、何度も何度も謝れば、きっと許してくりゃしゃんすよ。そしてもう、夜遊びは金輪際やめると言ったらいかがでありんしょう。ここに来るのもしばらくは、控えたほうがよろしいと思いんすえ」
岡田は「わかった。女房に謝るよ」と言って、しばらく来れないからと普段の三倍のお金を払っていった。朝霧はドアの前で、丁寧にお辞儀をして見送った。
いつの世も、男と女の問題は変わらない。強い女を貫こうと決心し、頭(こうべ)を上げる朝霧だった。
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