約束の日

 心地良いボサノバのメロディーが流れる喫茶店。奥の席で向かい合う、あいつと私。あいつはアイスコーヒー、私はホットコーヒーを飲む。高校時代から付き合い始めた私たちは、別々の大学に進んでからも、何となく付き合っていた。

 それが突然、「大事な話がある」と呼び出されて、今こうして向かい合っている。何だろう、大事な話って? もしかして別れ話? もう別れようって言われるのかな?

「よお、久しぶりだな、七海(ななみ)!」
「ねえ、正義(まさよし)くん、話って何?」
「ああ、実は俺、アメリカに行こうと思ってね」
「アメリカ? 何よ、いきなり? 何で?」
「うーん、神のお告げ、かな?」
「神のお告げって、何よそれ?」

 前から少し変わっているとは思っていたけど、突然アメリカに行きたいなんて……。

「アメリカに行って、どうするのさ?」
「まあとりあえず、英語をマスターするかな。英語が話せるようになれば、世界がぐっと広がるだろ?」
「じゃあ、大学は?」
「その間、休学する」
「英語をマスターして、その後はどうするのよ?」
「まだわかんない。そのままアメリカに住むかも知れないし、日本に帰ってくるかも知れないし」

 思わず大きな溜息が出ちゃう。いつもそう。計画性がなくて、行き当たりばったりな性格なんだから。今までだって、何度振り回されてきた事か。デートで映画に行こうって言ってたのに、急に海に行くって言い出したり。感覚人間で、いい加減すぎるよ。

「それじゃあ私は、どうしたら良いのよ?」
「どうしたらって、何が?」
「正義くんが帰ってくるまで、待ってろって事?」
「うーん、そりゃまあ、どっちでも良いんじゃないかな?」
「どっちでも良いって、何さ!」
「待っていたきゃ待ってても良いし、待ちたくなかったら待たなくても良いし」
「何よ、それ……」

 こういう所が頭にくるのよ。私は一体何なの? 彼女なのか彼女じゃないのか、はっきりしてよ! そう言いたくて、口まで出かかったけど、私は言葉を飲み込んだ。いい加減でいつも振り回されるんだけど、そんな正義が大好きだから。

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「じゃあ、こうしようか?」
「えっ、何?」
「十年だけ待ってよ。もし十年経っても、君が俺の事が好きだったら、十年後の今日の午後六時、この店で待ってて。もし違う人を好きになったら、来なくて良いから。俺も、十年経っても君の事が好きだったら来るし、違う人を好きになったらここには来ない。それでどうかな?」
「それでどうって言われても……」

 大きな目で凝視された私は、言葉に詰まってしまった。一方的に決められても困るんだよって言いたかった。アメリカなんて行かないでって言いたかった。私の傍(そば)にずっといてよって言いたかった……。

 だけど言えない。言うのは恥ずかしいし、言ってもどうせ聞かないと思うから。もう、絶対待っててなんかやるもんか。そう思いながらも、大好きな気持ちは消せない……。

「うん、わかった。じゃあ、十年後ね。来るかどうか、保証はできないけど」
「好きな人が出来たら来なくて良いからね。俺だって、来るかどうかわからないし」

 そう言って笑う、あいつの顔が眩しい。格好良い。だけど、私にはどうする事も出来ない。

 正義が、「十年後も、ここやってますか?」とマスターに尋ねると、「君たちのために頑張って続ける」と笑った。店内には、私たちの他に客はいなかった。

 十年なんて、あっという間だった気がする。あいつと別れて、今まで何人かと付き合ったけど、どうしても正義と比べてしまう。あいつの嫌な所ばかり思い出すのに、どうしても忘れられない。

 行こう。あいつに会いに行こう。もしかしたら、あいつは来ないかも知れない。私の事なんてとっくに忘れて、幸せになっているかも知れない。それでもいいや。来なくてもいいや。一時間だけ待って、来なかったら帰ろう。

 約束の日、約束の喫茶店。もうすぐ午後六時になる。来てるかな? 来ていないかな? 胸が高鳴って鼓動が早くなる。心臓を右手で押さえながら、ゆっくりとドアを開けた。

 「いらっしゃいませ」と声が響き、穏やかに微笑むマスターが見えた。顔のしわが少し増えた気がする。彼もまた、十年前の約束を覚えていてくれたんだ。私を確認して軽く会釈をすると、奥の席を指差した。

「久しぶり!」

 えっ? どうして? どうしているの? 何でいるのよ、と言いたかったけど、言葉が何も出てこない。その代わり、目から熱いものが零(こぼ)れている。

 涙が口から出そうになるほど、胸の中が熱くなった。ああ、良かった。やっぱり来て良かった。口を押さえたまま立っている私に、あいつが口を開いた。

「元気だったか? 話したい事がいっぱいあるから、まあ座って」

 ちょっとだけ太ったかな? でも、それ以外は変わっていない。十年前のあいつと、少しも変わっていない。

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