都内某所の住宅街。とあるアパートの一室で、目にいっぱいの涙を浮かべながら、幸子(さちこ)はキャリーバッグに荷物を詰め込んでいる。初めて二人で住み始めた時には、これから始まる同棲生活がどんなに楽しくなるだろうと、希望に胸を膨らませていた。
それが、こんな形で終わりを迎えようとは夢にも思っていなかった。背中を向けている智昭(ともあき)の姿が時折視界に入る度に、抑えきれない腹立たしさが込み上げてくる。
「あのさ」
「なーに?」
「好きだよ」
「僕も好きだよ」
「愛してる」
「僕も愛してる」
「じゃあ、一緒に住もうよ」
「うん、良いよ。引っ越してきなよ」
半年前の会話が脳裏に蘇る。趣味が一緒で話が合うし、見た目も結構男前。東京で一人暮らしも寂しいから、一緒に暮らせば楽しいかも。そんな安易な気持ちで始めた同棲だった。
好きだとか愛しているだとかは、惚れっぽい幸子にとっては日常的に使う言葉。まずは、良いなと思った相手と付き合ってみる。違うなと思ったら別れれば良い。そんな日々を繰り返してきた。
しかし、智昭は今まで付き合ってきた男とは違っていた。これほど好きになってしまうとは、幸子は思いもしなかった。
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「煙草(たばこ)はやめた方が良いよ。体に悪いから」
「それぐらい、わかってるわよ。だけどやめられないの」
智昭は幸子に、煙草の有害性に対して数字を使って説明してくる。論理的思考を好む彼に対し、感情が優先する幸子は、難しい話をされると途端にイライラしてしまう。
「あまりお酒は飲み過ぎない方が良いよ」
「私だって、そんな事わかってるわよ」
智昭は幸子に、アルコール摂取の有害性を論理的に説明する。しかし、幸子が酒を飲み過ぎてしまうのには、様々な要因がある。それを口で説明出来ない事が悔しい。
いつも冷静な智昭と、感情優先で生きている幸子。幸子がいくら好きな感情をぶつけても、智昭は思い通りの答えをくれない。感情には感情で返してほしい。こんなにも自分が愛しているのだから、同じくらいの愛情を返してほしいと思ってしまう。
「君が勝手に大好きになっているだけ。僕にそれを求めないでほしい」
智昭は幸子を嫌いなわけではない。ただ、大好きかと言うとまた違う気がする。幸子が好きでいてくれるなら、自分も好きになろう。幸子が嫌いだと言うなら、それは仕方がない事。来る者拒まず去る者追わずのスタンスなのである。
しかし、幸子にはそれが理解出来ない。どんなに愛の矢を放っても、それが彼に当たるとは思えないのだ。イライラが爆発して口喧嘩になり、出ていく事になった。こんなにも愛しているのに、どうして出て行かないといけないのか? 自分で自分がわからない幸子だった。
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