朝礼が終わると、今日の担当名簿をもらって仕事を開始する。前の方で管理職が目を光らせる中、大勢の女性たちが電話をかけ始める。名簿に載っているのは、一度でも自社商品を購入した事がある顧客の電話番号。
入社して二年目の美鈴(みすず)は、名簿順に電話をかけて商品を売り込むこの仕事が好きではなかった。かと言って他に良い仕事もなく、生活のため仕方なく続けているに過ぎない。今日は昼食を早めに済ませると、外に出て浩市(こういち)に電話をかけた。
「もしもし、私、美鈴ですけど。今、ちょっと良いですか?」
「どうも、どうしました?」
「ちょっと聞いてくださいよ。ひどいお客さんがいたんです。私もう、悔しくって……」
美鈴と浩市の出会いは、駅前にある喫茶店。占い好きの美鈴が出張鑑定を頼み、現れたのが浩市。柔らかな物腰に見た目もスマート。突然現れた好みのタイプに、ハートを奪われてしまった美鈴。
三回目の鑑定の時に思いきって、プライベートで会ってもらえないかと頼んでみると、あっさりと了承。それ以来、電話をかけたり直接会ったりして、不満や愚痴などを聞いてもらうようになった。
「今晩、お会いできますか?」
「良いですよ」
仕事がうまくいかなくて不満が溜まると、電話だけでは満足できなくて会いたくなる。電話だと、一方的に美鈴が話し、彼はただ相槌(あいづち)を打つだけ。直接会って顔を見ると、電話の数倍も心が嬉しくなる。
夕食を食べた後、洒落(しゃれ)たバーでお酒を飲む。
「私って不器用な女なんですよ」
「うーん、不器用って言うか、正直すぎると言いますかねえ」
「それって、誉め言葉ですか?」
「そうですよ。僕は正直な人が好きですから」
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好きと言われた事が嬉しくて、彼の肩にもたれかかる。優しく髪を撫でられ、さらに心が舞い上がる。もうこのまま抱かれても良い。彼の言動が、美鈴の酔いを加速させる。
「今晩、泊めてもらっても良いですか?」
「えっ? いや、それはさすがに、まずいですね。もう帰りましょうか」
結局その日は、タクシーで送ってもらった。紳士で真面目な態度に、さらに心惹かれていく。
それからも美鈴は、度々彼に電話をかけた。今日一日あった事、楽しかった事や腹が立った事など、他愛もない話を延々と繰り返す。それでも彼は、黙って話を聞いてくれた。
会いたいと言えば、会ってくれるし、遊びに行きたいと言えば連れてってくれる。一緒にいるだけで楽しい。美鈴は幸せを感じていた。
ある日の昼休み、一緒にご飯を食べていた同僚が話しかけてきた。
「最近機嫌が良いみたいだけど、良い事でもあった?」
「え、わかる? 私ね、恋人が出来ちゃった」
「恋人? それでそれで、どこまで進んだの?」
「どこまでって、一緒にご飯食べたり、遊びに行ったり」
「もう、したの?」
「え? いや、そんなのまだよ」
「じゃあ、キスは?」
「キスも、まだ」
「手は繋いだの?」
「手も……まだ」
「それって本当に、付き合ってるの?」
「えっ?」
美鈴は絶句した。そう言えば、付き合ってくださいと言った事もないし、言われた事もない。電話は、いつも私がかけるだけで、あの人がかけてくる事なんてない。
急に襲ってきた激しい不安。彼女は外に飛び出し、彼に電話をかけた。
「もしもし、美鈴です」
「はいはい、どうしましたか?」
「あのー、今晩、会ってもらえませんか?」
「あっ、今日はごめんなさい。都合悪くて」
「何か予定でも?」
「そうなんです。妻の実家に行く用事があって」
「えっ?」
「すいませんね。急ぎの用ですか?」
「いえ……あの、何でもありません。すいませんでした」
慌てて電話を切った美鈴。全てが自分のひとり芝居だった事に気づく。悲しいと言うより、何だかおかしくて、笑えてきた。
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