「先輩、来月ですね?」
「えっ? 何が?」
「何がって、結婚ですよ」
「ああ、そうだね。覚えててくれてありがとう」
彼の右手が私の頭を撫(な)でる。彼に触れられるだけで、敏感に感じてしまう。
「先輩、まだ間に合いますよ」
「えっ? 何が?」
「何がって、私との結婚ですよ」
「いやいや、そりゃダメだよ」
「えー、やっぱり?」
そう言って笑う私の頬に、両手を当ててくる。じっと見つめられて、胸が苦しくなる。
人通りの少ない公園の駐車場。コンビニ弁当を買って、車の中でお昼ご飯を済ませた。遠くの方に、ジョギングをする年配の女性がいる。その様子を薄目で見ながら、このまま抱かれても良いと思った。まだ仕事は残っているけど。
「本当に赤ちゃん、出来ちゃったんですか?」
「うん」
「沙織(さおり)さんの嘘じゃないんですか?」
「病院に一緒に行ったから間違いないよ」
「えー? 嫌だよー!」
泣きまねをしながら、彼の胸を軽く叩く。優しく髪を撫でられた私は、瞳をうっとりさせて彼を見る。
「先輩……キス……」
瞳を閉じておねだりをする。彼の唇が軽く触れる。
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「えっ? もう終わり?」
「うん」
「どうして?」
「だってさー、沙織に悪いじゃん」
「違う! 悪いのは沙織さんの方だよ!」
きつい目で睨(にら)む。彼は、困ったなと言う表情で苦笑いをしている。
沙織さんは私の一年先輩。社内でも評判の小悪魔女子だ。女の匂いをぷんぷんさせながら、二十代とは思えない色気で男たちを翻弄(ほんろう)する。
そして、目の前にいる倉田先輩は、私より五歳年上。母親が日本とイタリアのハーフで、彼はクオーター。端正な顔立ちとモデル並みのスタイル。さらに仕事も出来る男とくれば、憧れない女子はいない。
私だって、沙織さんに負けていない自負がある。彼女のように、同時に何人も付き合うなんて器用な事は出来ないけれど、一人の男をじっくりと愛する。学生時代から、言い寄ってくる数ある男の中から品定めをして、最適な人とじっくりと付き合ってきた。
彼女はとにかく可愛さで勝負。一方私は、可愛さプラス知的さで勝負。感情的な女の本能だけをぶつけては、知的な男には敬遠される。相手の趣味を理解し、話題を膨らませる知識が必要だ。文系ならセンスのある言葉を使い、理系なら論理的に会話をする。銀座のホステスから学ぶ事は多い。
彼は、結婚式はしないらしい。入籍だけして、気の合った仲間だけで披露宴をするそうだ。だから、結婚しなかったとしてもキャンセル料の心配はない。私にもまだ、チャンスはある。問題は、お腹の赤ちゃんだ。
男なしではいられない彼女が、他の男と関係を持つ事を先輩は許している。先輩自身、私のほかにもたくさん女がいるだろうから、お互い様だ。彼女のお腹の赤ちゃんの父親が、本当に先輩なのかが非常に疑わしい。それでも先輩が彼女と結婚するのは、束縛されない自由さを気に入っているから。
つまり二人にとっては、赤ちゃんが誰の子でも関係ない。世間は、結婚して子どもを育ててこそ一人前だと判断する。男にとって結婚は、自分を高めるための手段であり、仕事や交友関係を円滑に進めるためのものなのだ。
私はと言えば、他人の彼氏だろうと、好きになったら奪うタイプ。どうしてなのか、自分でもよくわからない。今までそうしてきたし、これからも多分、変わらないと思う。
こんな恋愛しか出来ない私を、世間の人は可哀想な女だと言うだろう。だけど良いんだ。私は私。私の人生は私のものだ。
「先輩……」
甘えた声を車内に響かせ、彼の唇を奪う。残り一か月、どうやって逆転しようかと考えながら、嫌がるそぶりを見せない彼をきつく抱きしめた。
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