時刻は午後二時過ぎ。外はまだ太陽が眩しく、人々が忙しく働いていると言うのに。あなたは、私の傍(そば)で寝息を立てている。なんて無防備な寝顔なんだろう。あなたの奥さんは、いつもこの寝顔を見ているのかと思うと、羨(うらや)ましくて仕方がない。
「君からは一切、連絡しないでくれ」
一方的に告げられた寂しい言葉。こんなにも残酷な言葉が他にあるだろうか? あなたは、平気でそんな事が言える人。私の気持ちなんて考えてもくれない。だけど馬鹿な私は、あなたに会いたいから、黙って頷くしかない。
あなたの仕事は外回りの営業だから、昼間は割と自由に出来る。夜になれば夫と父親の顔になるから、私は昼間しか会えない。あなたの自宅から遠いホテルに、お互いが車でやってくる。この時間だけ、私はあなたの妻になれる。
この前、あなたが寝ている時に、あなたの携帯を覗(のぞ)いてみた。予想はしていたけど、私の電話番号が男の名前になっていた。奥さんに知られるわけにはいかないから仕方ないけど、女として見てもらえない自分が可哀想に思えた。
将来を嘱望(しょくぼう)されているエリートサラリーマン。子育てに積極的な優しい夫。世間の人はあなたをそう評価している。絵に描いたような幸せな家庭を壊してはいけない。誰も得をしないのだから。
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ホテルに入ったらまず、化粧を落とす。香水なんて、初めからつけてはいけない。他の女の痕跡を残すのは、奥さんに対して失礼だ。私は完璧な日陰の女でなければならない。それをあなたは望んでいるし、私自身も望んだ事だから。
あなたの携帯には、家族の画像が溢れている。映っているのは、可愛い女の子を抱いた綺麗な奥さんと、ここにいるあなた。どれもこれも、みんな笑っている。この中で笑っていないのは私だけ。
「君の前では本当の自分でいられる」
いつかあなたが言った言葉。家族の前で笑うあなたと私の前で笑うあなた、どっちが偽りの笑顔なんだろう。
「妻と別れる事は出来ない。君と別れる事も出来ない」
本当に都合の良い話なんだけど、私はわかったと言ってしまう。私だって、あなたと別れる事は出来ない。この関係を続けるためには、ここで会ってここで別れるしかない。私はあなたにとって、ホテルだけの女。
そんな私でも、夢を見る事もある。いつか、あなたと一緒に街を歩いてみたい。いつか、あなたの首筋にキスの跡を残してみたい。私と愛し合った痕跡を、あなたの体に刻みたい。
でも、あなたを奪う事で誰かを傷つけたくはない。傷つくのは私、私だけが傷つけば良いのだ。
さあ、まだ時間はたっぷりある。気の済むまでおやすみなさい。ここでは私が、あなたの傍にいるから。
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