「はい、お部屋の確認は終わりました。あっ、あそこに、サボテンがありますけど」
「えっ? あっ、そうですね」
不動産屋の担当者に言われて、気がついた。出窓の隅にいた、小さなサボテン。全く違和感を感じないほど、この部屋と馴染んでいる。彼女が置いていったものだ。
「どうしますか?」
「えーっと、そうですね……。持っていきます」
どうしますかと言うのは、こちらで処分しましょうかと言う意味だろうか? いくら彼女と別れたと言っても、サボテンを捨てるのは違う気がする。
「これ、どう? 可愛いでしょ?」
同棲を始める時に、彼女が持ってきたサボテン。可愛いかと言われても、あの時は返答に困ったけれど、こうして花が咲いていると可愛く感じる。
彼女が育てていたから、どうやって育ててれば良いのかわからない。砂漠なんかで育つ植物だし、水をやるタイミングなんかがあるのだろうか? そう言えば彼女に、サボテンの育て方を聞いた事がなかった。彼女がやっていた事に、もっと関心を持ってあげれば良かった。
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彼女は何が好きだったんだろう? 料理の研究は、よくしていた気がする。雑誌を買ってきて読んだり、ネットで調べたりしていた。感想をよく聞かれたけど、僕は料理にこだわりなんてないし、ただお腹が膨れれば良いと思っているから、どれもみんな旨いってだけで済ませていた気がする。そういうところがダメだったのかも知れない。
外食しても、いつも同じ店だって言われたなあ。同じ店で同じメニューしか頼まないって。確かに僕は、同じ店にしか行かないし、だいたいいつも、同じものを頼んでいる。いちいち食べる事で悩みたくないし、その悩む時間がもったいないと思うから。
でも、女性はきっと違うんだろうなあ。いろんなお店に行ってみたいし、いろんなものを食べてみたい。食べる事が楽しみなんだろうなあ。その辺の事を、わかってあげれば良かった。
あの日の事は、今でもよく覚えている。些細な口喧嘩から、お互いの不満が一気に爆発してしまった。洗濯の途中だったのに、よほど頭にきたのだろう。荷物をカバンにつめて、そのまま出て行ってしまった。後に残された僕は、しばらくぼーっとしていたっけなあ。
「では、鍵をお預かりします。どうもありがとうございました」
笑顔の不動産屋に頭を下げて外に出た。この部屋には二人の思い出が詰まっているから、一人で住むには辛すぎる。彼女はもう、新しい恋に出会っただろうか? 僕はしばらく、彼女の事を引きずりそうだ。空から降る雪が、この街を冷たくしながら、僕の心も冷やしている。冬が終わらない限り、心に積もった雪は解けそうにない。
当分の間は、このサボテンと一緒に生きて行こう。厳しい環境でも生き抜く力を、サボテンから学ぶ事にしよう。
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