「君だって、好きにしたら良い」
「わかりました。そうさせていただきます。」
玄関先で冷たい視線をぶつけ合う二人。時田雄一郎(ときたゆういちろう)は黙って踵(きびす)を返すと、待たせていた車に乗り込んだ。咲子(さきこ)は深々とお辞儀をして、遠ざかる車を見送る。乾いた魂のぶつかり合いに干渉する者は誰もいない。高級住宅街の朝が静かに始まる。
「夫は日曜の夜まで帰りません。私も出掛けます。日曜の午後には帰る予定です」
「かしこまりました」
家政婦にそう告げると、咲子は荷物を持って車庫に向かった。待っていた運転手の宮崎智弘(みやざきともひろ)がドアを開くと、咲子は一礼して車に乗り込む。前を向いて指示を待つ宮崎に、咲子は緊張した声で話す。
「宮崎さん、おはようございます」
「奥様、おはようございます」
「昨日頼んでおいた事、覚えていらっしゃいますか?」
「はい……一応、準備しております」
「では、参りましょう」
咲子に促され、宮崎は車を発進させる。道中、咲子は車外を見つめるだけで、一言も話さない。緊張している宮崎は、唾を飲み込む回数が増えていく。二時間が経過すると、車は目的地に到着した。ホテルにチェックインした後、咲子が部屋に入る。続いて宮崎も同じ部屋に入る。
緊張して立ったままの宮崎に、椅子に座るように咲子が促す。彼女が注いだお茶を「ありがとうございます」と言って飲み干す。彼の喉の渇きは尋常ではない。
「宮崎さん、今日は付き合わせてごめんなさいね」
「あ、いえ、私の事はお気になさらず」
「優しいのね」
「あ、いや……」
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宮崎は咲子の専属運転手で、彼女の買い物の手伝いをしたり、送迎をするのが仕事である。雄一郎には別の運転手がついているが、その人が休みの日などは雄一郎の送迎をする事もある。
雄一郎はいくつも会社を経営している実業家で、咲子とは一回り年齢差がある。結婚して数年経つ今でも、二人に子どもはいない。
「夫と私の結婚は、お互いの親が決めたんです」
宮崎は昨日、車の中で、咲子から話を聞いた。お互いの親が、両家の利益のために二人を結婚させた。性格が正反対で、心は通わない二人なのだが、別れる事は出来ない。独身の頃から女遊びをしてきた夫は、結婚しても変わろうとはしなかった。一人、涙で枕を濡らす日々が続く咲子。
段々と心が病んでいく咲子を心配した雄一郎は、ある日彼女に提案をした。君も愛人を作れば良いじゃないかと。そのため、咲子の専属運転手を雇う事に。しかし、誰でも良いわけではなく、独身で良心的で口の堅い男でなければいけない。
そして、社員の中から選ばれたのが宮崎だった。容姿や性格、年齢など、咲子の希望に合わせ、最終的には雄一郎が直接話をした。特別な仕事だ、給料も今までの倍にする、但し秘密は守ってほしい、約束出来るか、と。雄一郎に連れられて咲子と会い、彼女の了承を得て、彼の仕事は始まったのである。
二人は温泉に入った後、夕食を済ませ、ベッドに並んで座った。
「宮崎さん、私の事はどう思います?」
「え? どう思いますと言われましても……。素敵な女性だと思います」
「それは……好き、という意味ですか?」
ぷるんと膨れ上がった唇を艶(なま)めかしく見せつける咲子に、宮崎の鼓動は最高潮に高鳴っている。人形のように美しい彼女に、彼は一目惚れをしていたのだ。
「はい。初めて会った時から、奥様の事が好きでした」
「そう、嬉しいな。私も、宮崎さんを初めて見た時から、好きになっちゃった」
乙女のように恥じらう様子が、さらに愛おしさを増していく。しかし、これは仕事の一環であり、本気で好きになってはいけない。それが条件なのだから。
咲子は指輪を外して、テーブルの上に置いた。
「さあ、始めましょう」
彼をベッドに倒し、唇を重ねてくる咲子。この瞬間、宮崎は、運転手から愛人へと、スイッチを切り替えた。
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