「よくもまあ、散らかすのが好きだなあ」
誰もいない部屋の電気を点(つ)けると、玄関の前に脱ぎ捨てられたパジャマがある。洋子はそれを拾い、二間(ふたま)続きの畳の部屋に向かう。小さな丸テーブルの上には、彼女が広志のために作っておいた朝食兼昼食の食べ残し。ピーマンだけが残った皿を手に取り、目を細めて「ほんと、子どもね」と笑う。
食器を洗って冷蔵庫に目をやる。ホワイトボードに「出かけるから夕飯いらない」と書いたメッセージ。どうせいつもの店だ。お金があるのか気になるが、まあいいやと呟(つぶや)く。冷蔵庫の中の余り物で夕食を済ませると、山にしてあった洗濯物を畳んで衣装ケースにしまう。
押し入れから掃除機を出し、隅から隅までていねいに掃除をすると、部屋の中央にスーツケースを広げた。同棲を始めた三年前に持ってきて以来、何度開いた事だろう。広志の浮気を知る度に、荷物を詰め込んで部屋を飛び出す洋子。そして「もうしない」と泣きながら謝る広志にほだされて戻る事を、何度繰り返してきたのだろう。そんな嫌な思い出ばかりが頭によぎる。
今度こそ戻らない。こんな事を繰り返してたら、私はおばあちゃんになってしまう。衣装ケースから自分の服や下着を取り出し、スーツケースに詰めていく。ふと手にした水着を見ながら、遠い過去の記憶を辿(たど)ってみる。
高校時代、洋子と広志はクラスは違ったが、水泳部で一緒だった。明るいキャラクターでムードメーカーの広志の周りには、自然と人が集まってくる。面白くてスポーツ万能、女子の人気も高い。洋子もその中の一人だった。
容姿に対しては、少なからず自信はある。だけど、私よりも綺麗な子はたくさんいる。何よりも、男子と話すのは得意じゃない。話しかけられれば答えるが、自分から話しかける事はしない。そんな自分が選ばれるはずがない。遠くから眺めているだけで満足だった。
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そんな洋子に、広志が声をかけてきた。高校二年の夏休み。部活の合宿の時に呼び出され、告白されたのだ。瞬(またた)く間に噂は広まったが、誰も洋子を妬(ねた)む者はいなかった。広志の浮気癖は当時から有名で、洋子も捨てられるのではと心配されるほどだった。
周囲の予想通り、洋子と付き合いながら、他の女の子に声をかける広志。ある日、見兼ねた洋子の親友が広志を問い詰めると、俺は洋子が一番だとうそぶく。親友に別れた方が良いと忠告されても、洋子は広志と別れようとはしなかった。
厳格な両親に育てられた洋子は、何をするにも否定された。勉強やスポーツ、どんなに頑張っても褒められた事はなかった。そのため自信が持てず、自己肯定感の低い人間になっていった。
そんな自分を、初めて認めてくれたのが広志だった。初めて愛されている実感を与えてくれたのが、広志だった。一方、彼にとっては洋子は都合の良い女。お互いを必要とする共依存の関係なのだ。
浮気性だが、愛に飢えた女の扱いは超一流の広志。感情を振り回されながらも、彼の愛から離れられずに今日まで関係を続けてきた。だけどもう、今日で終わりにするんだ。
「さよなら。今までありがとう。元気でね」
便箋に書いた別れの言葉をテーブルに残し、部屋を出て鍵を掛けると、合鍵をポストに入れた。
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