「構わないで。私の事なんか何も知らないくせに」
そう言って美登里(みどり)は、雅史(まさし)の手を振り払った。冷たい風が二人の間を吹き抜ける。化粧を施(ほどこ)した彼女の瞳が潤んでいるように雅史には見えた。美登里は手を挙げてタクシーを停めると、乗り込んでそのまま夜の街に消えていった。
眠らない街のあちらこちらで、陽気な声が聞こえてくる。まるで自分を嘲笑(あざわら)っているような気がして、彼は悔しさで拳を握りしめる。
雅史の頭の中で、ぐるぐると鳴り響く美登里の声。「何も知らないくせに」その言葉が、彼の胸を抉(えぐ)って止まない。自らの無力感に苛(さいな)まれ、漏らした溜息が白く漂い、力なく立ち尽くすしかなかった。
「俺の彼女の引っ越し、手伝ってくれないか?」
大学の友人に言われて現場に行ってみると、彼の彼女の他にもう一人女性がいた。背が高く、長い髪を胸まで伸ばした美人だが、整った顔が冷たい雰囲気を醸し出している。雅史は一瞬「苦手なタイプ」と思ったが、意外にも気さくに話しかけてきた。
「私、美登里って言うの。よろしくね」
「あ、どうも。僕は雅史って言います。よろしくお願いします」
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この出会いをきっかけに、雅史は美登里と付き合い始める。後で友人から聞いた話によれば、失恋した彼女のために雅史を呼んだのだと。別れた彼氏が遊び人だったため、今度は真面目な男が良い。その要望に応えて紹介されたのが雅史だった。
恋愛経験が乏しい雅史を、美登里は積極的にリードした。どこに遊びに行くかを決めるのは彼女で、雅史はただお金を払うだけ。雅史の家庭は裕福だったため、アルバイトなどしなくても遊びに行くお金には困らなかった。
雅史は彼女に誘われるまま、初めて女性の体を知った。美登里は初めての彼を笑う事なく、優しく優しくリードした。外見から受ける冷たい印象と、内面に隠している優しい心。そのギャップが魅力となり、雅史はどんどん彼女に惹かれていく。
真面目な雅史は、初めての人となった美登里を真剣に愛そうと心に決めた。彼女のために勉学に励み、彼女のために立派な人間になろう。雅史の頭の中は美登里の事でいっぱいになっていく。
そんな彼の気持ちに、美登里は少し戸惑いを感じていた。雅史の真剣な愛を嬉しく思う一方で、どこか息苦しい。彼の愛が強ければ強いほど、後ろめたさを感じてしまう。絶対に知られてはいけない過去が、彼女の心を重くする。
美登里に似た女性がいると友人から聞き、雅史は店の前で待っていた。そこは際どいサービスを提供する店。「まさかそんなはずが……」信じたくない彼の前に、濃い化粧と派手な衣装で着飾った美登里が現れた。
「どうしてここで働いているの?」
「あなたこそ、どうして?」
「君が心配で来たんだ。どうしてなのか、話を聞かせてくれ」
「……」
「とにかく帰ろう」
「やめて、離して!」
美登里は雅史の手を振り払い、タクシーで行ってしまった。何が何だかわからないまま、一人取り残された雅史。しばらく動く事が出来ない。ただ、冷たい夜風に当たりながら、彼女の事を考えた。
きっと何か、僕には言えない事情があるのだろう。初めて会った時から感じていた冷たさは、一人で抱えてきた秘密のせいなのか。それがどんな秘密でも、僕は彼女を愛し続けよう。その気持ちには、一点の曇りもない。どんな事があっても、彼女を守り続けよう。雅史はそう、心に誓った。
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