賑(にぎ)やかな東口とは違い、住宅街が広がる西口は、緑が多いせいか空気が濃い気がする。この駅に降りる度に、城田瑠香(しろたるか)はそう感じていた。近くにある高校から、下校の学生たちが歩いてくる。お揃いの制服ばかりの中、自分だけ違う制服が恥ずかしくて、少し早足で通り抜けた。
駅から歩いて十五分、目的のマンションに到着。エレベーターは使わずに三階まで歩く。高校三年生、老けるにはまだ早い。そして、陸上部の彼女にとっては良いトレーニングに思えた。軽やかなステップで三階に到着すると、三〇五号室のインターホンを鳴らす。
「どうぞ」
大人の男性の低い声が入室を促す。勢いよくドアを開けて「こんにちは!」と声をかけると、奥に立っていた長身の男性が「こんにちは」と優しく微笑んだ。「失礼します」と言ってスリッパを履き、奥の施術室(せじゅつしつ)に入る。高校一年生の時から通っている鍼灸院。それも今日で最後と思うと、感慨深いものがある。
「大会はいつですか?」
「来週です」
「調子はどうですか?」
「まあまあです。でも、先生の施術を受ければ絶好調になります!」
「それは良かった。じゃあ、始めましょう」
静かな室内に、癒しの音楽が流れ始める。疲れた体にすーっと沁(し)み込んでいく感覚。これを聴くと、条件反射のように眠くなってしまう。しかし、今日は絶対に眠らないと、瑠香は決めていた。
先生の施術を受けるのは、いつも大会の前。彼女がここに通い始めたのは、同じ長距離選手で一つ上の先輩に紹介されたから。先輩が言うには、大会前に施術を受けると結果が良いのだと。それを聞いてすぐに通い始め、その言葉通りになっていった事から、今日までずっと通い続けてきた。
そして、高校最後の大会が終われば、もう通う理由がなくなる。今日が最後の日なのである。中学一年から今日まで陸上を続けてきた瑠香は、豪快な母から生まれてきたせいか、病気などかかった事はなく、怪我も擦り傷程度しかない。丈夫な体に産んでくれた母には感謝しているが、少し残念な気持ちもある。
「痛みがなくても来てもらって良いですよ。全然、気にする事はありません」
鍼灸院に通う人たちは皆、どこかしらの痛みを持ってやってくる。それなのに、どこも痛くない自分が来ても良いのだろうか。通い始めの頃、そんな疑問を先生に投げかけた時、笑顔で優しく答えてくれた。
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背が高くて手足も長い。細身の体に、日に焼けない白い顔。綺麗に掃除が行き届いた室内に、癒しの音楽。まるで異次元の空間にいるようだ。いつも丁寧な言葉を使い、高校生の他愛もない話でもニコニコと聞いてくれる。何よりも、高校生の自分を大人として扱ってくれる。一回り以上も年上の男性に、彼女は恋をしていた。
ここで過ごした思い出が、美しい映像になって頭の中で再現されていく。思わずにやけそうになるのを我慢しながら、先生の長い指が体に触れる瞬間を堪能(たんのう)する。しかし、頭の隅の方には、思い出したくない先生の言葉が残っていた。
前回、瑠香が来た時、先生は一人の女性と楽しそうに談笑していた。彼女に気づいた女性が「じゃあ、またね」と言って部屋を出た。いつも静かで穏やかな先生が、楽しそうに話しているのが珍しくて、気になって聞いてみた。
「綺麗な方ですね。どなたですか?」
「ああ、彼女ですか。実は僕、十月に彼女と結婚するんですよ」
「えっ? け、結婚……」
あまりの衝撃に祝福の言葉も言えず、そのまま施術が始まってしまい、その後は先生と何を話したのか覚えていない。その日の夜は、布団に潜って声を押し殺して泣いた。二年続いた一方的な彼女の初恋は、儚(はかな)くも泡となって消えたのである。
「はい、終わりました」
頭の中で思いを巡らせているうちに、一時間の施術時間が終了した。温かくなった体とは対照的に、心の中は冷えたままだ。このまま先生と別れてしまったら、この苦しみからは逃げられない。そう思った瑠香は、ある行動に出る事にした。支払いを済ませた後、思い切って話を切り出す。
「先生、二年間、どうもありがとうございました」
「はい。長い間、通ってくださって、ありがとうございました」
「この前は言えませんでしたけど、結婚おめでとうございます」
「ああ、どうもありがとうございます」
「私から先生に、お祝いのプレゼントを贈ります」
「え、プレゼントですか? ありがとうございます」
「じゃあ、目を瞑(つむ)ってください」
「はい、わかりました」
ごくりと唾を飲み込むと、瑠香は先生の唇にキスをした。
「えっ? 何?」
「えへへ。先生、末永く、お幸せに」
呆気(あっけ)にとられたままの先生を置いて、瑠香は部屋を飛び出した。階段を駆け下りる。マンションを出て走りだす。両目から溢れた涙が頬を伝(つた)う。先生の唇は、彼女の冷えた心に火をつけた。最初で最後の先生とのキス。それは、苦いタバコの味がした。
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