「この部屋、好きに使って良いから」
「ありがとう、叔父さん」
「悪いな、こんな部屋しか用意出来なくて」
「僕たちには充分すぎる。本当にありがとう」
黙って右手を上げると、叔父は部屋を出て行った。小説家の叔父が資料室として借りている小さな部屋。本棚には難しい本が並んでいる。窓際には小さなソファーベッド。カーテンの隙間から差し込む太陽が、座っている真利亜(まりあ)の顔を優しく包み込んでいる。
「大丈夫か? 真利亜」
「うん……」
短パンに白いシャツ。パジャマしかなかったから、とりあえず僕の服に着替えさせたけど、早く代わりの服を用意しなければ。
幼馴染の真利亜。ずっとずっと幸せだと思っていた彼女の家庭は、とんでもない地獄だった。こんな小さな体で、一人で耐えてきたのか。僕は何も知らなかった。真利亜から聞かされるまで、何も知らなかった。
「私、死にたい」
「えっ? どうして? 何があったの?」
彼女の口から出た言葉は、すぐに信じられるものではなかった。エリートサラリーマンのお父さんと綺麗で優しいお母さんに育てられ、絵に描いたような幸せ家族に見えていたものが、全くの嘘だったなんて。
白いシャツの下の体には、無数の傷が隠されている。長い間、父親からの暴力に耐えてきたのだ。彼女だけでなく、母親もまた、DV被害者である。
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自分を必死に守ってくれた母親のために耐えてきたけれど、遂には体まで求めるようになってきた。寝たふりをしてやり過ごしたけれど、いつか一線を越える日がくる。そんな恐怖を抱えた彼女は、パジャマのまま僕のアパートにやってきた。
「いつか、龍(りゅう)ちゃんのお嫁さんになりたい」
「いいよ、お嫁さんにしてあげる」
大きな瞳をキラキラさせながら言った、幼かった真利亜との約束。二人はお互いを大切に思いながら、今日まで過ごしてきたと思っていた。でも、僕は彼女の苦しみを全然知らなかった。僕の前ではいつも笑顔で、楽しそうにしていた彼女の心が、本当はぐちゃぐちゃに壊されていたのに。
「龍ちゃん、来て」
彼女が両手を伸ばしている。僕は急いで彼女の横に座る。右手で彼女の背中をさすり、大丈夫だと言い聞かせる。彼女が僕の胸に顔を埋(うず)める。僕は優しく彼女の髪を撫でる。心が落ち着いた彼女が立ち上がり、着ていたシャツと短パンを脱ぐ。下着姿の彼女が、僕の目の前に立っている。
「お父さんより先に、龍ちゃんと一つになりたい」
そう言って、ソファーベッドに横たわる真利亜。瞼を閉じて、僕の答えを待っている。
「真利亜……」
まだ十七歳で高校生の彼女と、大学受験に失敗して浪人生の僕。叔父さんを頼って僕たちがここにいる事を、真利亜の両親も僕の両親も知らない。これからどうしたら良いのか、見当もつかない。
「俺はお前たちの味方だ」
叔父さんが言ってくれたその言葉が、どんなに嬉しかったか。僕も同じように、真利亜の味方でいよう。僕だけは、彼女を悪から守ろう。先の事はわからないけど、今は彼女の事だけを考えよう。
「真利亜、君が好きだ」
彼女の瞳から涙が零(こぼ)れて、頬を伝っていく。その頬に、僕は優しくキスをする。カーテンの隙間から差し込む太陽が、僕たちを優しく包み込んでいる。
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