長い運転を終えて車を降り、重い足取りで部屋を目指す。閑静な住宅街、午後九時ともなればご近所にも気を配るのが大人だろう。古びた階段を上り、乾いたコンクリートを静かに歩く。同じアパートの住人たちとはあまり顔を合わせた事がない。あまり会いたくないのはお互い様だ。
バッグから鍵を取り出し、久しぶりに我が家に入る。締め切っていたせいか、臭いが気になる。せっかく旅行でリフレッシュできたのに、一気に現実の生活感に襲われて気が滅入ってしまう。こんな時、誰かが待っていてくれれば違うのかも、と思ったりもするが余計に気が重くなってしまう。
途中で買ったコンビニ弁当で夕食を済ませ、お湯を湯船に溜めて疲れを癒す。温泉旅行で疲れて家のお風呂に入るなんておかしいよね、と独り言を呟く。
缶ビールを一本だけにして、早めに床(とこ)に就(つ)く。その日の疲れはその日のうちに。年齢を重ねる毎に疲れも取れにくくなる事を、身をもって実感している。
横になるが、背中が痛い。反対向きになったり、仰向けになってみる。首が痛い。足が痛い。疲れているのに眠れない。逆に、疲れすぎたからこそ、却(かえ)って目が冴えてしまう。今まで何度もあった事だから、またかと言った感じだ。
それでも、明日の事を考えると寝なくちゃ。今まで休んだ分、やる事がいっぱいある。疲れた頭でごちゃごちゃと考えていると、携帯電話に着信が入った。驚いてスマートフォンの画面を見る。懐かしい人からだ。思わず緊張して、手に力が入る。
「もしもし、圭介?」
「もしもし、美和子、久しぶり」
「何? 突然、どうしたの?」
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一年前、三年続いた同棲を解消した。私が結婚について切り出すと、結婚は考えられないと言って出て行った圭介。その時、彼への思いを断ち切って仕事に打ち込もうと決めたんだ。
フリーのライターになって、それなりに仕事も順調。味が濃いだの塩辛いだの、料理で文句を言われる事もない。今の生活で私は充分に満足しているのだ。
「また一緒に、どうかなって、思って……」
私は深い溜息(ためいき)をついた後、低い声を出す。
「また一緒にって、何を?」
「何をって……」
電話の向こうで、困った顔をしているに違いない。また一緒に住もうって言いたい事くらい、こっちは百も承知だ。
昔から私は、人の言う事に逆らう事はなかった。争い事が好きじゃないから、自分が先に一歩引いて、はいはいと相手の言う事に従う人生だった。一方の圭介は、独りよがりで自分勝手。何でも勝手に決めてしまう。この部屋の家具だってそう。あいつの好みの色で統一されている。まあ、面倒だからそのままにしているけど。
私の冷たい態度に戸惑っているはず。困った時に鼻に手をやる仕草が思い浮かぶ。
私を都合の良い女と思っている奴。男の言う事をはいはいと喜んで聞く出来た女なんて、この世に存在しない。私なんかじゃなくて、他の女の所に行ったらどうなのよ。
人一倍寂しがりやだから、人恋しくて電話をかけてきたのだろう。人肌が恋しいのか? さあ、そんなに私が欲しいのなら、プロポーズしてみなよ。そしたら、考えてやってもいいかな。
「もう、用がないなら切るわよ」
「あっ、ちょっと待って」
さあ、言ってしまいなさい。私を納得させる言葉が言えたら、気が変わるかも知れないんだから。
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