朝、ひとみが目を覚ますと、リビングのテーブルに置手紙があった。白い便箋(びんせん)に大きく「田舎に帰る。今までありがとう」との文字。ひとみは慌てて悟郎(ごろう)を捜すが、彼の姿はどこにもない。携帯に電話をかけるが、出てくれない。LINEのメッセージも既読にならない。
「田舎? 九州? 福岡?」
頭の中で、彼の故郷の情景が浮かぶ。一度、一緒に旅行に行った事がある。実家の住所も知っている。時計を見ると、午前七時五十分。いつもなら六時には起きるのに、今日は休みだからと昨夜は飲み過ぎてしまった。突然、田舎に帰るなんて、どうしたんだろう? ひとみの頭の中で、昨夜の記憶が蘇る。
「俺、やっぱり京都は合わない」
「そう? 京都生まれの私でも、合わないなって思う時があるよ」
「うん」
「そんなに悩まないで、まあ、飲もうよ」
二人の出会いは、インターネット。共通の趣味の話題で盛り上がり、意気投合。京都と福岡で遠距離ながら、どんどん感情は高まっていった。そして遂に、会いたい気持ちが最高潮に達したところで、彼が京都に行き、二人は同棲を始めた。
ひとみは両親が経営するスーパーで働いており、彼もそこで働く事になった。しかし、いきなり娘と同棲を始めた彼を、ひとみの両親は快く思わない。娘を心配する親心として当然だろう。
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彼もまた、成人した娘の恋愛を邪魔する彼女の両親の気持ちが理解出来ない。彼女が一人娘だから、三男の自分がわざわざ京都に来てやったのにという思いがある。
それでも彼は、内面を隠しながらニコニコと仕事をしていたが、スーパーでの接客を通して、京都に住む人たちの人間性に戸惑う事があった。九州で生まれ育ち、常識のように思っていた事が、京都では常識ではなかったりする。
もともと悩みやすく、不満を内に抱えやすい彼は、ひたすら自分を押し殺して生きてきた。それでも、自分を理解してくれるひとみさえいてくれればそれで良い、そう思ってきた。
さりげなく、自分の気持ちを打ち明けてみるが、楽天家の彼女には彼の悩みは理解出来ない。昨夜の会話の中で、彼が送った最後のSOSを、彼女は見過ごしてしまったのだ。
彼に連絡がつかないまま、ひとみは新幹線に飛び乗った。窓の外には雨が降っている。その雨が、彼の涙のような気がして、ひとみの瞳を潤ませる。半年間、我慢してくれた彼が愛おしい。彼と過ごした日々が思い出される。
ひとみはもう、心に決めた。彼と共に福岡で住もうと。新幹線のように、彼女の心は猛スピードで彼のもとに飛んでいた。
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