「ママ、暑いよ」
「そうだね、暑いね」
今日は一段と暑い。頭上から降り注ぐ太陽が、足元から照り返す。娘と重ねた右手が汗ばむ。汗が滲む娘の額をハンカチで拭いながら上る坂道が、どこまでもどこまでも続いている。
この街は坂が多い。久しぶりに来てみて、改めてそう感じる。若い学生が、自転車で坂を上っている姿を見て、昔の自分と重なって見えた。若い頃、この街で過ごした記憶が蘇る。
「ママ、見て。レストランがある」
「うん。ここでアイスを食べよう」
「わーい、やったー」
懐かしいレストラン。ここに来るのは十年振りだ。外観は少しも変わらない。私のために変わらないでいてくれたのか。そんなはずはないけど、何故かとても嬉しくなる。
娘と座る窓際のテーブル。彼はここから見える海が好きだった。遠くに見える岬や貨物船を、何も言わずに一緒に眺めた日々。美味しそうにアイスを食べる娘と、十年前の彼の姿が重なる。
海がない県で生まれ育った私は、海が見える場所に住むのが夢だった。初めての一人暮らしの部屋は、出来るだけ海が近い所から選んだ。歩いて五分で浜辺に出られる部屋に住み、暇さえあれば海を見て過ごすのが好きだった。
彼とはこの店で出会った。友人の彼氏の友人で、会った瞬間に恋に落ちた。
短髪で日焼け顔、海が似合う人だった。一緒にサーフィンをしたり、ドライブをしたり、彼との思い出は楽しい事ばかり覚えている。喧嘩(けんか)をした事なんて一度もなかった。すごく気が合ったし、一緒にいてとても楽しかった。
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「僕たち、別れよう」
あまりに突然すぎて、言葉が出てこない。それまで仲良く過ごしていたのに、どうしてそんな事を言い出すのか見当もつかない。
「僕には夢があるんだ。その夢を叶えるために、僕と別れてほしい」
喧嘩をしたわけではない。嫌いになったわけでもない。ただ、夢を叶えるためには私と別れないといけない。その夢が何なのか、詳しく聞いても教えてくれない。
彼の事が好きだったから、彼の願う通りにしてあげたいと思った。私と付き合う事以上に、彼にとっては夢が大事なのだろう。私が一番になれなかった事がショックだったのかも知れない。
「うん、わかった。頑張ってね。応援しているからね」
そう言って私は、彼に向かって微笑んだ。その笑顔は、自然な笑顔ではなかったと思う。どこか不自然で、無理やり作った笑顔だったと思う。
もしあの時、自分の本音をさらけ出していたら……。別れたくないって、泣いて彼にすがっていたら……。
そう思いながら、目の前にいる娘の顔と彼の顔を変えてみたけど、やっぱりしっくりこない。過去をいくら悔やんでも始まらない。彼とは別れる運命だったのだ。
「美味しい」
「そう、良かった」
そう言う娘の飛び切りの笑顔が、私の過去の決断を肯定してくれた気がした。