「何時発の電車?」
「14時15分」
僕の問いに、君は笑って答えた。僕も笑おうと思うんだけど、うまく笑えない。たくさんの人でごった返す駅の中で、君とはぐれないように僕はしっかりと君の手を握っていた。
今日は特に暑いせいか、手がじんわりと汗ばんでくる。僕は時折ハンカチを出して、汗をぬぐってはまた、君の手をしっかりと握った。
この手を初めて握ってから、もうすぐ一年が経つ。君と初めてデートした時、君の方から自然と手を握ってくれた。
「デートってさ、みんなこうするよね、きっと」
あの日の、あどけない君の笑顔が目に浮かぶ。君はあれからずいぶんと大人になった。見違えるほど、綺麗になった。
君のかけがえのない青春の日々に、僕も少しだけ加われた事を光栄に思う。君はきっと、これからたくさんの人に愛されるだろう。たくさんの人に、夢や希望を与える存在になるだろう。
僕は君を、テレビの前で応援するよ。これからは、一人のファンになる。君の歌声は、きっと多くの人に感動を与えるに違いない。もちろん、僕もその中の一人だけど。
東京行きの切符を手に、君は改札を抜けていく。僕は入場券を買って、君の後をついていく。刻一刻と、別れの時間が迫っている。
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ホームの椅子に座る君と僕。気の利いた別れの言葉が浮かばない。楽しかった日々ばかりが思い出されて、きみが去っていく現実を受け止めきれない。
少し離れた場所に、若い男女が立っている。僕らと同じくらいの年だろうか。どうやら、男性の方が旅立つようだ。僕らの他にもたくさん人がいるのに、彼らは二人の世界に入り込んだまま。抱き合ったり、キスをしたり、お互いの気持ちを自由に表現している。
君も気になるみたいで、彼らの様子をちらちらと目で追っている。女の子の気持ちとしてはどうなのだろう。やはり、ストレートに気持ちを表現された方が嬉しいのだろうか。
出来る事なら、僕だってそうしたい。君をこの手で抱きしめて、熱いキスを交わしたい。君との思い出は、これが最後になるかも知れないと思うと、その衝動を抑えきれなくなる。
だけど、君には夢がある。子どもの頃から抱いてきた、歌手になる夢。それが、もうすぐ現実になろうとしている。君ならきっと、夢を叶える事が出来ると僕は信じている。だから、君の価値を落とすような行動はしちゃいけないんだ。
「昨日録音したやつなんだけど」
そう言って僕はイヤホンを手渡した。僕の気持ちを込めて作った歌。君だけに聴かせたい歌。君への愛の歌。
「どう、かな?」
君は黙って俯いたまま、動かない。カバンからハンカチを取り出す君。ああ、泣かせてしまったね。ごめん。本当は笑顔で送りたかったのに、僕も涙が出そうになる。
僕はこれからも、君を思って歌を作るよ。いつか僕の歌を、君が歌ってくれる日がくると良いな。
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