とあるアパートの部屋。互いの愛を確かめ合った二人が、ベッドに並んで座っている。麗奈(れな)はペットボトルのお茶を飲んだ後、光太郎に向かって話し始める。
「光太郎くん、私たちの関係は今日でおしまいだからね」
「えっ?」
光太郎は驚いて、麗奈の顔を見る。淡い笑みを浮かべているが、彼女の瞳から真剣さが伝わってくる。緊張しているのか、彼は両手で拳を作り、力一杯握りしめている。
「そ、それは、どうしてですか?」
「あなたと私じゃ釣り合わないの。あなたのためなのよ」
麗奈は光太郎の肩を抱き寄せ、優しく髪を撫でる。突然別れを告げられ、頭の中で麗奈の言葉がぐるぐると回る光太郎。
「ぼ、僕、先生がいないとダメなんです」
泣きそうな目をしている彼の体を、麗奈は力強く抱きしめる。三年間、ずっと光太郎の家庭教師をしてきた麗奈。先生と生徒の関係から、いつしか互いに惹かれ合うようになった。
光太郎の家は、代々続く政治家の家系。ゆくゆくは、父の地盤を受け継いで代議士になる事を期待されている。繊細な心を持つ彼は絵を描く事が好きで、将来は画家になりたいと思っているが、そんな事は言えるはずもない。
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両親から厳しく育てられ、甘えは許されない。政治は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界、強くなければやっていけない事は彼自身よく知っている。そんな殺伐(さつばつ)とした家庭で育った彼が、初めて愛を教えてもらったのが麗奈だった。
中学の時に父親を交通事故で亡くし、貧乏な環境に耐えながらも勉強に励んだ麗奈は、授業料免除などの特待生として進学し、大学に通いながら家庭教師をしてきた。苦労してきたからこそ、光太郎が置かれている立場の辛さがよくわかる。彼の良き理解者として相談にのるうちに、二人の気持ちは高まっていった。
光太郎が大学に合格した事をきっかけに、二人は自然と男女の関係になり、麗奈のアパートで愛を確かめ合う日々を重ねていく。そんなある日、光太郎の父の秘書が、麗奈の部屋を訪れた。
「光太郎さんと別れてくれませんか?」
秘書はそう言って、帯封(おびふう)の現金が入った紙袋を手渡す。光太郎は代議士になる事が運命づけられている。そのため、結婚相手もそれなりの家柄が必要である。申し訳ないが身を引いてほしいと頼まれ、麗奈はそれを了承した。
貧乏な私とあなたは、あまりにも違いすぎる。二人がこれ以上愛し合っても、お互い幸せにはなれない。お互いのために、別れた方が良い。優しく語りかける麗奈の胸で、光太郎は泣き続ける。
時に母として愛し、時に姉として愛し、時に恋人として愛してきた愛しい彼。ただの恋人の関係ではない二人。それだけに、別れを切り出す方も辛い。だけど、愛しているからこそ、彼の幸せを願いたい。
麗奈は彼を立たせ、母親のように服を着せると、姉のように強く抱きしめた後、恋人のように熱い口づけを交わした。そして玄関まで見送ると、優しい眼差しでこう言った。
「さあ、もう行きなさい。二度とここに来ちゃだめよ。連絡もしちゃだめ。私の事はもう忘れなさいね。そして、立派な政治家になってください」
目に涙が滲んでいる光太郎を見て、思わず涙が零れそうになる。それを必死に堪(こら)えて彼を送り出す。そして鍵をかけてから部屋の隅に座り、膝を抱えて呟く。
「私は君を忘れないよ」
そう言って、大声で泣いた。
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