夜の帳(とばり)が下(お)り、辺りはすっかり静まり返っている住宅街。その角にあるマンションの一室で、パジャマに着替えてベッドに入ろうとしている早苗(さなえ)のスマートフォンに着信が入った。照明を消して真っ暗な部屋に灯るその灯りが、眠りに就こうとしていた彼女の脳を覚醒させる。
「もしもし、早苗?」
画面に映し出されているのは、雄介(ゆうすけ)という文字。そして、彼女の耳に届いた声も、やはり雄介のもので間違いない。それまで眠気に支配されていた彼女の頭が急速に回転を始める。
「雄介、電話ありがとう」
午後十一時半になろうとしているこの時間に、予告もなしに電話がかかってきたら、普通は嫌な気持ちになってもおかしくない。しかし彼女の顔には、嫌悪どころか歓喜の表情が浮かんでいる。彼女にとって彼からの電話は、何にも代えがたい大切なものなのだ。
「ごめんね、こんな遅い時間に」
彼の口から飛び出す謝罪の言葉が、彼女の心を嬉しくさせる。早苗にとって雄介からの電話は、何時であろうと構わないほどに待ち望んでいたものだった。それ故に、電話をかけてくれただけで嬉しいのに、さらには自分を気遣う言葉をもらい、喜びが二重になっている。
「いいのいいの、何時だっていいの。待ってたんだもん、電話がくるのを……」
感情が高ぶり、涙声になる。喉元まで涙が押し寄せてきているのを感じる。でも、泣いてはいけない。この電話が終わるまで、涙は我慢しよう。スマートフォンを握る左手に力が入る。
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「明日、俺、行ってくる」
「うん」
「生きて帰って来れないかも知れない」
「うん、わかってる」
彼の口から聞く言葉が、恐れていた日が来た事を実感させる。明日行われる試合がどれほど困難なものかを、早苗も充分に承知している。
彼は、多くの人が注目している試合に臨む、当事者である。まかり間違えば死ぬかも知れない。その事実を知っているからこそ、怖さで震えている彼の心情が声で伝わってくる。
「お前に、何度も辞めてと言われたのに、辞められなくて……ごめんな」
ごめんなの一言が、早苗の瞳を潤ませる。机の上にある二人の写真が、暗さと涙でよく見えない。嗚咽(おえつ)しそうになるのをじっと堪(こら)え、傍にあったタオルで涙を拭(ぬぐ)う。
泣いちゃだめだ。これから命をかけようとしている人の心を沈ませてはだめだ。そう自分に言い聞かせながら、右手で作った拳で太ももを殴った。そして、上を向いて涙を抑え、作り笑顔になってみる。
「私の事なんて気にしないで。それよりさ、もし勝ったら賞金はいくらになるの? すごい金額になるんじゃない?」
早苗は、無理やりに明るい声を出して、楽しい話に切り替える。そして、午前零時を迎えようとしているのに、この電話を終わらせたくない。明日は試合だから、ゆっくり体を休めてほしいと思う一方で、まだ話を続けたいと願う早苗だった。
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