「いやいや、何を言っているの。俺が浮気するような奴に見える? 勘弁してくれよ」
広志(ひろし)はそう言って、ポケットから煙草(たばこ)を取り出す。右手を必要以上に動かして力が加わったためか、口に咥(くわ)えた煙草が少し折れ曲がっている。そのまま何度も繰り返し吸い続け、あっという間に吸い終えて灰皿に捨てた。
広志が力強く押しつぶしたせいで、灰皿の中の煙草はひどく折れ曲がっている。その一部始終を見ていた葉子は、彼が嘘をついている事を確信する。ひどく狼狽(ろうばい)した時に繰り返す彼の癖を、葉子は何度も目にしている。
また新しい女が出来たのかと、半ば呆れ気味の葉子。平静を装いながらも、心の中は怒りに打ち震えている。それでも、好きだから別れられない。好きだから許してしまう。
二人が出会ったのは半年前の事。葉子は小さな小料理屋を営んでおり、広志は店の常連客。親が遺した不動産の家賃収入で悠々自適に暮らしている。気前良くお金を使ってくれる彼は、大切な上客。羽振りが良く、見た目もスマート、さらには話し上手な彼の誘いを受け入れ、二人はすぐに恋仲になった。
「葉子は本当に、エプロンが似合うよなあ」
「そう?」
「うん。美人で気立てが良くて料理も上手いんだもん。なかなかこんな女の人いないよ。嫁さんにしたいなあ」
「本当? ありがとう」
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朝御飯を作る葉子に、広志が甘い言葉を囁(ささや)く。三十路を越えて、そろそろ結婚を考えている彼女をその気にさせる、彼の口説き文句。そう言う男は今までに何人もいたが、結局は金だけ貢(みつ)がされて捨てられてきた。そんな経験をしてきても、不幸な女の代表のような葉子は、口が上手い彼の言葉を信じてしまう。
「ねえ、花嫁衣裳は何が良い?」
「えっ? 花嫁衣裳?」
「例えばだよ。例えばの話。もし葉子が結婚するとしたら、教会でするのが良いの? それとも日本人だから、神社でするのが良いかな?」
「そうねえ……」
「教会だったらウェディングドレスになるし、神社だったら着物だよね」
「ドレスかぁ……。着てみたいな」
「俺はさ、白無垢(しろむく)を着た葉子が見てみたいな」
「白無垢かぁ……」
「似合うよ、きっと」
そう言って広志は、葉子を抱き寄せてキスをする。熱い熱い口づけに、彼女の心はメロメロになってしまう。もう頭の中では、彼との結婚式が映像化している。
そんな過ぎた日々を思い浮かべながら、浮気の弁明をする彼を見ていると、何もかもが嘘だったんだなと思えてくる。だけど憎めない。やっぱり、愛しているから……。
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