「ごめん、君の気持ちは嬉しいけど、僕は……」
俯(うつむ)きながら話す修司(しゅうじ)の言葉に、冴子(さえこ)の顔がみるみる紅潮(こうちょう)していく。肩を震わせ、拳(こぶし)を握りしめながら、冴子は大声を張り上げた。
「そんなにあの子が良いの? あの子のどこが良いのよ? あの子が今までどんな生き方をしてきたのか、全然知らないくせに!」
彼女が手を振り上げた拍子に、テーブルの花瓶が床に落ちて割れた。その甲高い音が、暗く静かな店内に余韻となって響いている。
目を見開き、鬼のような形相で捨て台詞を吐いた冴子は、カウンターの陰に隠れていた奈津(なつ)を一瞥(いちべつ)して部屋を出て行った。
奈津は、バケツを用意すると、割れたガラスを丁寧に拾い集めた。修司がそれを手伝おうと奈津を見ると、彼女の頬に涙が伝(つた)っている。
「どうしたの?」
優しい声を掛けられ、奈津は思わず「ごめんなさい」と言って涙を拭う。奈津の耳に、冴子の言葉が残っている。「どんな生き方をしてきたのか、全然知らないくせに」思い出したくない過去の日々が、頭の中で蘇ってくる。
「冴子の言う通り、私はあなたに相応(ふさわ)しくない……」
奈津の憂いに満ちた表情が、修司の心を重苦しくさせる。それでも、例え彼女にどんな過去があろうと関係ない、そう自分に言い聞かせながら、「過去なんて関係ないよ」と笑った。
「言わせて、ください……」
「えっ?」
「聞いてほしいんです、あなたに。私の過去を」
「いや、無理に言わなくても良いと、思うけど……」
そう言いながら、修司は心の中で葛藤していた。聞いて心が揺らいでしまうかも知れない自分が怖かった。知らなかったで済むなら、その方がずっと楽である。
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しかし、過去の自分と向き合いながら生きてきた彼女の辛さをわかってあげたい。例え彼女が人殺しだったとしても、受け入れるのが本物の愛ではないのか。そんな自問自答を繰り返しながら、奈津の横顔をじっと見つめていた。
奈津は、ガラスの破片が入ったバケツを片付けると、椅子に腰かけた。修司は隣に座って、優しく肩を抱き寄せた。それからぽつりぽつりと、奈津が語り始める。
奈津と冴子は高校の同級生。裕福な家庭の冴子は、金の力で人を操りいじめグループのリーダーだった。母子家庭で貧しい奈津は、いつも冴子にいじめられていた。特に、冴子が好意を寄せていた先輩が奈津を好きだと知った時から、執拗ないじめが始まったのだ。
「私、万引きで捕まった事があって、それで高校を退学になりました」
冴子に強要されて、奈津は何度か万引きを繰り返していたが、ある時、店員に見つかってしまった。全てを奈津一人の責任にされてしまい、その結果、高校を辞めざるを得なくなったのである。
「援助交際も強要されて……」
そう言いかけて、両手で顔を覆う。その手の隙間から、一筋の涙が見える。修司は彼女の顔を胸に当てると、左手で奈津の髪を優しく撫でてあげた。しばらく時間が過ぎた後、ぽつりぽつりと奈津が語り始めた。
裕福な男性をターゲットに、援助交際や美人局(つつもたせ)を繰り返した。全て、冴子に強要されてやった事。そんな日々から逃れるため、奈津は母と共に夜逃げをしたのだ。
転々と住所を変えながら働くうちに、母は体を壊して入院してしまう。奈津はその費用を工面するために、夜の世界で働くようになった。
夜の世界で生きていくうちに、奈津は自らを磨いていった。そして銀座で名が知られるようになり、修司と出会ったのであるが、それと同時に、修司に一方的に好意を寄せていた冴子と再会する事になったのだ。
冴子に居場所を知られてしまい、絶望で震えている奈津を、修司はきつく抱きしめた。過去の嫌な思い出を、隠す事無く話してくれた彼女。全てを受け入れ、彼女を守っていこうと覚悟を決めた修司はスマートフォンを取り出した。
「どうも、佐々木です。この前の借りを返してもらって良いですか?」
しばらくして、着信音が鳴った。届いた画像を確認すると、歩道橋の下で血を流して横たわっている冴子の姿が。画像と共に届いたのは「事故死のようです」との文字。
「冴子、死んだって」
「えっ?」
思いがけない言葉に驚く奈津。修司は彼女の額に軽くキスをした後、笑ってこう言った。
「これからは、ずっと一緒だよ」
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