一人暮らしの後藤浩司(ごとうこうじ)は、録画しておいたドラマを観終わって時計を見た。午後十一時半を回り、さあ寝ようかと思って布団に入ると、突然アパートのドアをドンッと叩く音がする。ビクッとして飛び起きた彼は、恐る恐る玄関に近づいて聞き耳を立ててみた。
「だ、誰かいるのか?」
思い切って声をかけたが、返事はない。心臓をバクバクさせながら、ドアスコープを覗いてみる。しかし、外には誰もいない。変だなと思いながらも、後藤はそのまま床(とこ)に就いた。
翌日の午後。電車に乗るために、人もまばらな駅のホームに後藤が立っていると、ドンッと押されて危うく線路に落ちるところだった。何だと思って振り返ると、大きなカバンを担いだ男が数メートル先を歩いている。「あのカバンが当たったのか」と彼は納得した。
映画館でスパイ映画を観た後藤は、映画の興奮が冷(さ)めやらないのか、家に帰る途中に何度も後ろを振り返った。「誰かに尾行されている」そんな気がして仕方なかったのである。
「そんな馬鹿な」「一般人の俺が尾行なんてされるわけがない」「気のせいだ」そう思いながら歩いていると、ちょうど曲がり角に差し掛かった所で自転車にぶつかりそうになった。
すんでの所で避(よ)けたために事なきを得たが、その自転車は猛スピードで駆け抜けていった。もしもあのままぶつかっていたら、相当な怪我を負ったに違いない。
「もしかして俺は、狙われている?」
昨夜から立て続けに起きている異常な現象。姿の見えない追跡者の存在は、後藤の心を少しずつ凍らせていくのである。
この奇妙な出来事に不安を感じた彼は、噂で聞いたある有名な占い師を頼る事にした。店のドアを開け、「すいません!」と大きな声で呼びかけてみる。
「はーい」と言って奥から現れた美人占い師。彼女の穏やかな笑顔は、命の危険にさらされている後藤には一服の清涼剤のように感じられた。そして席に着くと、彼は早々に話を切り出す。
「実はですね、どうも誰かに狙われているみたいなんですよね、俺」
「はいっ? 誰かに狙われている? 何を狙われているんですか?」
「俺の命です」
「い、命?」
いきなり物騒な事を言われ、彼女は驚いてのけ反(ぞ)ってしまった。「もしも命を狙われているのなら、行くのは警察では?」「どうしてここに?」素朴な疑問が頭をよぎる。
「そういう危険な事でしたら、まずは警察に行ったほうが良いのではありませんか?」
「いいえ、警察は信用出来ないんです」
「どうして信用出来ないんですか?」
「組織との内通者が内部にいるからです」
「そ、組織、ですか?」
「そうです」
「組織って、何の組織なんですか?」
「それはわかりませんけど、きっと何かの組織です」
彼が何を言っているのか、彼女にはさっぱりわからない。
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「狙われているって、いつからなんですか?」
「そうですねえ、大体一週間くらい前からです。夜中に寝ていたら、アパートの部屋をドンドンッと叩いたり、駅のホームで押されて落ちそうになったり、危うく自転車で轢(ひ)かれるところでした」
「そ、それは大変ですね……。何か狙われる理由があるんでしょうか? もしかして誰かの秘密を知ってしまったとか、何かヤバい荷物を預かっているとか……」
「いいえ、それが何も思い当たらなくて……。だから怖いんです、理由がわからないから」
「もしかしてあなたは、ミステリーとかお好きだったりします?」
「そうですね、刑事物のドラマや映画は好きですよ。スパイ映画とかよく見ますし」
「アメリカのCIAとかイギリスのMI6、それにソ連のKGBとかでしょ?」
「そうですそうです。ああ言うのには、必ず内部に内通者がいるじゃないですか? だから警察は危なくて行けないんですよ」
「はあー、なるほど……」
どうやらこの人は推理オタクで、現実と虚構の区別がつかなくなっているようだ。偶然に起きただけなのに、いかにも関連づけて考え、誰かに命を狙われていると言う架空のストーリーを組み立てている。彼女はそう考えた。
「日本だと……」
「内閣情報調査室、略して内調(ないちょう)になりますよね」
彼女もまた、こういう話は好きだった。アクションスパイ映画は全シリーズ欠かさず観ているし、KGBのスパイが実はCIAの二重スパイだったとか、逆転に次ぐ逆転のどんでん返しが好きなのである。
「よーく思い出してみてください。あなたが以前、見たり聞いたりした事が、組織にとって大変な問題になっているのかも知れませんから」
そんなはずはないだろうと思いながら、彼の話に乗っかるのも面白そうだと彼女は思った。「それはあなたの思い過ごし」なんてバッサリ切り捨てるのも、ちょっと可哀想である。
「うーーーーん、どうでしょう……」
後藤は必死になって考えるが、なかなか思いつかない。それはそうだ、実際に狙われている訳がない。心の中でそう突っ込みを入れながら、彼女は必死に笑いを堪(こら)えていた。
「やっぱり思いつきません。もしかしたら、俺の思い過ごしだったのかも……」
そう言って立ち上がると、彼は納得して帰っていった。その後姿を見送りながら、彼女はどうも納得のいかない不思議な感覚に囚われていた。
それから後藤は、駅のホームに立っていた。次々と、電車を待つ人が増えてくる。その人混みの中から、後藤は見覚えのある男を見つけ、やっと思い出した。
一週間前、後藤が見たのは、その男が女性を線路に突き落とす瞬間だった。目の前で人が殺される場面を目(ま)の当たりにした彼は、ショックで記憶を失っていたのである。
後藤の顔色から、思い出した事を確認したその男は、ホームに入ってきた電車の前に彼を突き落とした。次の瞬間、耳をつんざく甲高い女の悲鳴が、夕方のホームに鳴り響いたのである。
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