逃がさない彼女

 ある日の午後、私が店でパソコンを開いていると、ふと入り口に気配を感じた。胸の辺りがきゅーっとなる。エアコンはつけていないのに、冷たい冷気が左腕を掠(かす)める。どこか重苦しく、ねっとりとした空気。それでいて、どこか懐かしい感覚……。

「あなたは、確か……」

 入り口に立っている彼女を見て、数か月前の記憶が蘇る。パソコンの顧客名簿を開くと、「栗林美奈代(くりばやしみなよ)」の文字が。

「栗林さんでしたよね?」

 黙って頷(うなず)く彼女。事情を察した私は、中に招き入れて話を聞く事にした。

「もしかして、前にお話してくれた彼氏が?」

 彼女は再び頷くと、黙って下を向いた。彼女の無念さを思うと、胸が締め付けられるように苦しくなる。私は思い立ってカウンターに向かった。

「どうぞ……」

 彼女が好きだったコーヒーをテーブルに置く。カップの横には、甘いチョコレートを二つ添えて。彼女は力なくお辞儀をすると、コーヒーカップから立ち上(のぼ)る湯気に顔を近づけた。白い湯気が、透明な彼女を通り過ぎていく。

 パソコンの画面には、彼氏の名前「土屋政直(つちやまさなお)」の文字が。彼女が私の店に相談に訪れたのは、彼氏のDVが原因だった。

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 かなりの焼き餅焼きだという彼。普段は優しいのに、お酒が入ると人が変わってしまう。酔いが覚めた途端に優しくなるので、別れたくてもなかなか踏ん切りがつかなかったのだと。

 私は知り合いの刑事に連絡を取り、彼女から教えてもらった千葉の山林を捜してもらう事にした。川崎刑事は事情を理解し、すぐに千葉県警に連絡。しばらくして、川崎刑事が駆け付けてくれた。

 彼氏の居場所を尋ねてほしいと言われ、私が彼女に聞いてみると、「もうすぐここにやってきます」と言うので、川崎刑事には奥で待機してもらう事に。それからすぐに、入り口のドアが開いた。

「先生の噂を聞いて訪ねてきました」
「どうぞ、そちらにお掛けになってください」

 テーブル席に着いた彼は、誰もいないのにコーヒーカップが置いてある事を訝(いぶか)しく思いながらも、すぐに話を切り出した。

「引っ越ししたいんですけど、方角的にどちらに引っ越した方が良いでしょうか?」
「そうですねえ、あなたにとって吉となる方角は南西ですねえ」

 彼はまだ、警察が動いている事を知らない。どこか遠くへ逃げるつもりなのだ。私は千葉県警から連絡が入るまで、しばらく彼の話に付き合う事にした。

 時折笑いながら楽しそうに話す彼には、すぐ横で自分を睨みつけている彼女の姿は視(み)えない。

 しばらくして、川崎刑事が奥から出てきた。山林に埋められた彼女の遺体が発見された事を告げると、彼はがっくりとうな垂(だ)れて観念してしまった。

 手錠をかけられて連行される彼の事を、口角を少しだけ上げながら見つめる彼女。嬉しさと哀しみが入り混じる彼女の表情が視えたのは、私だけだった。

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