「こんにちは先生、私の事、覚えてます?」
店の入り口に立ち、悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべながら、彼女が私に話しかける。振り返って彼女を確認した後、少し驚いた事を表情に出さないようにしながら私は言った。
「はい、覚えていますよ、もちろん。どうしましたか?」
「どうしたもこうしたもありませんけどね……。まあ、話すと長くなるんですけど、良いですか?」
「さあさあ、どうぞどうぞ」
あんなに大柄で、体が重そうだった彼女が、今日は軽やかに動いている。彼女の事情を把握している私は、会った瞬間に何が起こったか理解できた。それでも彼女は、自分の状況を甘んじて受け入れている。そんなところが「彼女らしいな」と私は思った。
「えーっと……、どうしましょう? コーヒーでも、淹(い)れましょうかね?」
「そうですねえ、今日はどうしようっかなあ……。先生が淹(い)れてくれるコーヒー好きだから、とりあえずお願いします」
豆に拘(こだわ)って飲むほど、彼女はコーヒーが好きだった。この店に来るのは、相談と言うよりもおしゃべりに来るような人だった。
大抵の場合、夫に対する愚痴が主(おも)なのだけれど、私が聞き役に徹するのを良い事に、言いたい事を一方的に話して帰るような人だった。
コーヒーを淹れながら、複雑な感情が芽生えてくる。悔しいなあという思いと、残念だなあという思い。それと共に、私を思い出して訪ねてきてくれた事に対する感謝の思い……。思わず涙が零れそうになって、慌てて顔を背(そむ)けた。
「どうぞ」とコーヒーカップを差し出すと、彼女は「ありがとう」と力なく微笑んだ。そして、湯気の立つコーヒーをじっと見つめている。懐かしい香りを、思い出と共に味わっているのだろうか。二人は黙ったまま、重苦しい時間が流れていく。
「どうしました?」
緊張に耐えかねた私が、まずは言葉を投げかけた。いつもなら、来るや否や機関銃のようにまくし立てる彼女が、今日はその片鱗(へんりん)すら見せないからである。
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「あっ、ごめんなさいね、いつもの私じゃないよね。ちょっと感傷に浸っちゃった……」
何となく私には、彼女の気持ちが理解できる。目の前の彼女は、以前に警告した通りの結果を迎えているのだから。人は時として自分を過信してしまい、アドバイスや助言に耳を貸さない場合があり、自分に限ってそうなるはずはないと言う思い込みは、時に判断を甘くするのだ。
この人に限ってそんな事するはずないと言うのも幻想で、人を信じたい気持ちはわかるが、完全に信じてしまっては責任の放棄である。起きてしまった結果を相手のせいにしてしまう、責任転嫁に他ならない。
広く世間では、一般的に夫婦の場合、夫である男性が、妻である女性を守る事が当たり前のように認識されている。しかし、妻だって夫を守る義務があるわけで、一方的に夫に頼りきりではいけないだろう。
彼女の夫は、無口で内向的な性格。おしゃべりで外交的な彼女とは真逆である。大学で難しい研究をしている学者の彼は、一人で思索するのが仕事だった。
親同士が決めた結婚だったとは言え、彼女は夫を愛そうと努力したし、世間的に恥ずかしくない夫婦としての体裁を整えようとしていた。そしてそれは、彼も同じ思いだろうと彼女は信じていた。
度々この店に来ては、夫との性格の不一致を相談していた彼女。普段は大人しく、とても我慢強い夫だが、時に、溜め込んだ不満を爆発させてしまう。少しずつガス抜きをすれば良かったのだが、残念ながらそんなに器用な人ではない。
彼女が垂れ流すくだらないおしゃべりは、彼にとって有益なものではなかった。却って、大事な思索を中断させる不利益なものでしかなかった。
彼は彼女を傷つけまいとして、思索中の話しかけをやんわりと禁じてきた。しかし、「口から先に生まれた」と周りから揶揄(やゆ)されるほどの彼女には、それが出来なかった。
彼が聞いていようと聞いていまいと、独り言を言い続ける彼女。それは彼にとって、まるで工事現場の騒音のように聞こえたに違いない。
「やったのは、ご主人ですか?」
私が夫の仕業かと問うと、彼女は黙って頷いた。
「あなたの体は、今どこにありますか?」
「自宅の庭に埋められています」
私は夫に頼んで、彼の友人である川崎刑事に電話してもらう事にした。何度もこの光景を目にしている彼は、一人で空間に向かって話している私の様子を不思議がる事もなく、言われるまま電話をかけた。
「川崎、今電話して大丈夫?」
「おー、加賀美か、久しぶりだな。どうした、何かあった?」
「うちの奥さんが、いつものご依頼だって」
「いつもの……ああ、いつものやつね。了解しました!」
川崎刑事は、私からの依頼と聞いてピンときたようで、彼女の夫に事情を聞き、すぐに犯行を認めたという。計画性はなく、衝動的な犯行だったそうだ。速(すみ)やかに処理された事を伝えると、彼女は複雑そうな表情を浮かべた。
「あまり嬉しくないみたいだけど……」
「だって、私のせいで、夫の人生狂わせちゃったから……」
「でも彼は、あなたの命を奪ったんだから、罪を償わなくちゃ」
「私が先生の言う事を聞いて、もっと大人しくしていれば良かったのよね。それが出来なくてこうなっちゃったんだもん……」
彼女はそれきり口をつぐんだ。口は災いの元、亡くなってからようやく実感したようだ。それが私には、とても寂しく感じられて仕方なかったのである。
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