俳優の町田邦弘が病院に駆けつけた時には、既に亜矢の鼓動は止まっていた。妻を早くに亡くし、男手一つで育てた娘。まだ二十三歳、早すぎる死である。
自殺の原因はわかっている。ある男に捨てられたからであり、その男は彼にとってあまりにも身近な存在だった。
今や、若手俳優の中でも突出した人気を誇る風見壮太。背はそれほど高くないが、色黒で野性的な風貌。空手で鍛えたその肉体は、時に半裸で女性誌の表紙を飾る。
亜矢との出会いは、たまたま共通の友人がいたことから。デビューさえしていなかった風見は、どこにでもいる普通の青年に過ぎなかった。
出会ってすぐに意気投合し、二人が恋人になるにはそんなに時間がかからなかった。亜矢はいつも、嬉しそうに風見の話を父にしていた。その後俳優デビューして、町田とも何度か共演したのだが、風見に対して悪い印象を持たなかった。
しかし、幸せは長くは続かず「別れよう」とだけ言って、風見は亜矢から去っていった。その直後、写真週刊誌に風見の熱愛スクープが載る。相手の桐島ななみは映画で共演した若手女優であり、亜矢は二股をかけられていたのだ。
恋人から裏切られたショックにより、亜矢は熱愛発覚三日目に自ら命を絶った。追い打ちをかけるように、彼女のお腹に風見の子がいた事を知らされた町田は、風見への復讐を誓ったのである。
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二時間ドラマの撮影で、町田は北陸を訪れていた。サスペンスドラマの聖地としても有名であり、断崖絶壁の絶景が臨める場所だった。
主演の町田は、自ら扮する刑事が追い詰める犯人役に風見壮太を推薦した。主役で大御所俳優の推薦に異論を唱える者はいなかった。
物語のクライマックス、追い詰められた犯人が崖から身を投げるシーンがある。それを撮るためにこの場所にやってきた。もちろん、役者が実際に飛び降りることはない。
しかし、風見は実際に飛び降りてしまい、彼の誇らしい肉体は日本海の荒波に飲み込まれていった。助かる確率はゼロに等しい。
どうして彼は飛び込んでしまったのか、そこにいた誰もが疑問に思った。警察が到着して全員に話を聞くが、皆一様に見たままを話した。その結果、事故死として処理される事になり、死人が出たこのドラマは結局、お蔵入りとなったのである。
帰京して自宅に戻った町田は、娘の写真に手を合わせてこう呟いた。
「亜矢、お前の仇はとった……」
娘の復讐を果たすために町田が習得していたもの、それは催眠術だった。高所恐怖症の風見を落ち着かせるため、撮影直前に催眠術をかけていたのだ。
「心配しなくて大丈夫。私が一、二、三と言えば、君は高い所が怖くなくなる。断崖絶壁に立っても、全然怖くない。そう、君は鳥になるんだ。大空高く飛ぶ鳥は、高い所でも平気だろう。君はこれから鳥になる。だから高い所に立っても怖くない」
「僕は鳥……。鳥は高い所も平気だ……」
「そう、君は鳥。だから、全然怖くない。僕が危ないって叫んだら、鳥のように空を飛べば良い。じゃあいくよ、一、二、三!」
そして彼は鳥になり、空高く飛んだ。
テーブルの上には催眠術の本が開かれており、そこにはこう書かれてある。
「催眠術にかかりやすい人は次のような人。想像力がある人、集中力がある人、感情表現が豊かな人、依存心がある人、素直な人。職業では、俳優やアーティストなど……」
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