平成の時代が終わり、令和がスタートした五月一日。ゴールデンウィークの十連休という事もあり、日本各地がお祭り騒ぎの一方で、小さな悲劇が人知れず起こっていた。
大都会東京のとあるアパートの一室。一人の女性が床に横たわっている。彼女は既に息をしていない。カーテンは閉まったままで、誰もが連休で旅行に出ていると思うだろう。喧騒(けんそう)な戸外(こがい)とは対照的に、この部屋の時間は止まっている。
同じ頃、田村紋次郎は分刻みのスケジュールをこなしていた。行列が出来る店の料理作りだけでなく、テレビや雑誌の取材も殺到している。一年前は考えもしなかった今の状況を作り出したのは、ある一人の女性との出会いだった。
「最近、彼女は来てくれなくなったなあ……」
予約が取れない店になった今でも、カウンターの一番奥は「予約席」にしたままだ。彼女が突然やってきて「紋次郎さんの料理、最高に美味しい」と笑顔を見せてくれる時のために。
ちょうど一年前、紋次郎は東京の下町で小さな店をやっていた。職人気質でこだわりが強い彼は、料理人としては一流でも商売のセンスに恵まれていなかった。「宇宙一の料理を作る」その目的のために使われる材料選びには採算度外視だったからである。
こんな下町の店に、舌の肥えた客など来るはずがない。「量があって、安くて腹いっぱいになればそれで良い」そんな客に、紋次郎の料理の凄さを理解しろと言う事自体が、どだい無理な注文なのだ。
それでも紋次郎は、「いつか俺の料理をわかってくれる人が現れる」そう信じて、最高の料理を求めて日々研究を重ねていた。
ある日、普段から閑古鳥が鳴いている紋次郎の店に、一人の若い女性が現れた。透き通るような白い肌を、長い黒髪が際立たせている。切れ長の瞳がどこか儚(はかな)げな印象を与えていた。
「いらっしゃいませ、ご注文は何になさいますか?」
「シェフが作る最高の料理を食べさせてください」
先程の弱々しい第一印象とは対照的に、あまりに挑戦的な注文をする彼女。今までそんな事を言う客に出会った事がない紋次郎は一瞬驚いたが、若い彼女からは料理に対するこだわりが伝わってくる。自分の料理を正当に評価してくれそうな彼女の出現に、料理人としての血が騒いで仕方がなかった。
「わかりました。少々時間がかかりますが、お時間はよろしいですか?」
「時間は大丈夫です。最高の料理が食べられるのなら何時間でも待ちます」
彼女の他に誰もいない店内。紋次郎は店先に「準備中」の看板を出すと、彼女一人のために自分が出来る最高の料理を作り始めた。
「よし出来た!」
食材や調味料にこだわり、料理人として魂を込めた料理が完成した。
「大変お待たせいたしました」
「わー、どうもありがとうございます!」
紋次郎が持ってきた料理に顔を近づけた彼女は、まずは目と鼻の感覚を研ぎ澄ます。
「こ、これはすごい! やっぱりここに来て良かった!」
まだ一口も食べていないのに、目を潤ませている彼女。紋次郎の胸も熱くなってくる。
「いただきます!」
そう言って彼女は、少しずつ料理を口に運んでいった。味わうようにゆっくりと咀嚼(そしゃく)する。喜びに打ち震えているのか、小刻みに体を振るわせる。瞳に溜まった涙が零れないようにハンカチで押さえながら、彼女は料理を完食した。
口を丁寧に拭いた後、彼女はその場で立ち上がると、紋次郎に向かって深々とお辞儀をしてこう言った。
「あなたの料理に出会うまで、随分と時間がかかりました」
その言葉の意味がわからずにキョトンとしている紋次郎に、彼女は身の上話を話し始めた。
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彼女の名前は本田みゆき。某テレビ局のグルメリポーターをしている二十八歳。新興宗教の教祖だった母の影響で、幼い頃から特殊な能力を身に着けていた。それは食べ物に関する特殊な感受性だった。
添加物まみれの食品などを食べるとたちまちお腹を壊してしまう。食材や調味料の産地なども、一口食べただけですぐに見抜いてしまうほどだ。そのため、一流シェフの隠し味などもたちどころに言い当ててしまい、若いのに業界ではかなりの有名人になっていた。
「自分を満足させる最高の料理人に出会いたい」そんな思いで、仕事のない日はレストラン巡りをするようになった。独特の嗅覚と直感力によって、ようやく探し当てたのが紋次郎の店だったのである。
それからみゆきは、毎日紋次郎の店に通うようになった。「俺の料理がわからない奴には食べてほしくない」そんな頑固親父の紋次郎は、客と喧嘩する事もしばしばあり、商売としてはうまくいっていなかった。
そのため、みゆきがいつ店を訪れても、いわゆる貸し切り状態になっていた。紋次郎の味に魅せられてしまったみゆきは、紋次郎が作る料理以外、体が受け付けなくなってしまう。朝昼晩の食事を紋次郎の店で食べ、仕事で来られない時には弁当を作ってもらった。
みゆきは少しでも店の売り上げに貢献しようと、タレントや俳優、モデルなどの有名人を誘って来るようになった。舌の肥えた人たちは、次々と紋次郎のファンになっていく。
噂が噂を呼び、有名人たちが予約してくるようになった。一人では対応しきれなくなった紋次郎は、みゆきの紹介で有名投資家と知り合い、店の経営などは全て彼に任せ、自分は料理だけに専念する事にした。
やがて店はテレビでも取り上げられ、毎日行列が出来るほどの人気店になっていった。簡単に予約が出来なくなってからも、大恩人であるみゆきの席は必ず用意していた。いつ来ても食べられるように「予約席」として確保していたのである。
時代の寵児となった紋次郎はテレビの密着番組で、日焼けした顔に真っ白な歯をのぞかせながら、とびっきりの笑顔でこう答えた。
「僕の料理を美味しいといって食べてくれる事、それが僕の幸せです!」
自宅で出演番組を観ていた紋次郎は、ついにここまで来たなあと感慨にふけっていた。そしてふと、みゆきの顔が浮かんできた。「そう言えば、彼女はどうしちゃったのかなあ……」紋次郎は、この一か月間顔を見せなくなったみゆきの事が気になって仕方なかった。
紋次郎が自分を気にしている事など、みゆきは知る由もなかった。友人の紹介で付き合い始めた彼氏によって、みゆきの体に異変が起きていたのである。
味覚に敏感な彼女とは対照的に、彼は食べ物に無頓着だった。ジャンクフードが大好きで、体に悪いものばかりを好んで食べた。彼にぞっこん惚れ込んでいたみゆきは、嫌々ながら彼の食生活に合わせていった。
その結果、食べては吐く生活が続き、体がどんどん衰えていったのだ。しまいには、立って歩く事すらも出来なくなり、自宅アパートで引きこもるようになってしまった。
仕事も辞め、貯金はどんどんなくなっていく。体はやせ細ってしまい、顔からは生気が失われ、それにともなって彼の心は離れていった。
真っ暗な部屋の中、何も食べる気力がなくなってしまったみゆき。
「ああ、紋次郎さんの料理が食べたい……。厳選された食材に、あの絶妙な味付け……。美味しいんだよなあ……」
一歩も動けなくなったみゆきの体を、カーテンの隙間から夕陽が照らしている。それはまるで、天国へのエスカレーターのようだった。
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