ダイニングテーブルの椅子に座り、スマートフォンの画面を凝視しながら、和美の胸中はやりきれない思いでいっぱいになっていた。居ても立っても居られず、ソファーに寝転ぶ広志に話しかける。
「ねえねえ、アフリカの子どもたちはさ、学校にも行かずに働いてるんだって」
「え? アフリカがどうしたの?」
「貧しいから、子どもも働かないといけないんだって」
「そっかー、そりゃ大変だな」
スマホゲームに熱中する彼は、和美の話を上の空で聞いている。いつもそうだ。私の話なんて真剣に聞いてくれない。積年の恨みが喉元まで込み上げてくる。
「可哀想だと思わないの?」
「可哀想なのは俺だよ。早く昼飯作ってくれ」
日曜日の昼間から酒を飲み、横になってゲームに熱中。貧困に苦しむ子どもより、自分の昼飯を心配する。こんな男の世話をするために、私は生まれてきたのか? 窓の外の、今にも降り出しそうな曇天の空のように、胸に涙を溜める和美だった。
言い合いの末に殴られた過去を思い出し、昼食の準備を済ませた後、黙って外に出た。行先を告げたところで、関心は持ってくれないだろう。寂しさを胸に車を走らせる。しばらくして目的地に到着。入口で待っていた友人の和子と共に講演会会場に入る。
司会者に紹介されて登壇したのは、医師の倉田誠。髪を七三分けにして、眼鏡をかけた細身の男性。顔いっぱいに微笑みを湛(たた)えて立つ姿は、一見優しそうに見える。しかし、いざ語り始めると熱量が半端ではない。身振り手振りを交え、唾(つば)を飛ばしながら聴衆に訴えた。
一年の半分はアフリカで仕事をする。給料をもらってやっているのではない。残りの半分は日本で医師として働いたり、講演会などを通して寄付を募(つの)っている。和子から倉田の事を聞いた和美は、是非直接話を聞きたいとやってきたのだ。
貧しさ故に、満足な医療さえ受けられない人たちのために働く彼。父親の跡を継いで病院経営をする兄や、志に賛同して協力してくれる理解者たちの手を借りて費用を捻出している。金儲け主義の医師が決して少なくない中、へき地医療に一生を捧げた祖父の生き様が彼の信念を支えていた。
講演会が終わった後、倉田の支援者である和子と共に、和美は彼と話が出来た。講演の時とは打って変わり、穏やかな表情の彼の背後に、後光が射しているように和美には見えた。
「お話、感動しました。倉田さんの活動は素晴らしいです。是非、協力させてください」
「嬉しいお言葉ありがとうございます。本当にありがとうございます」
何度も何度も頭を下げる姿に恐縮してしまう。簡単には真似できないすごい事をやっているのに、偉ぶる事もなく腰の低い彼。和美は彼の事をもっと知りたいと思った。
子どもの頃から、困っている人を見ると放っておけない。自分が出来る事は何でもしてあげたい。他人の苦しみを自分の事のように感じてしまう。人の役に立つ生き方をしたい。そんな思いを心の奥底に秘めながら、何をどうしたら良いのかわからずに焦ってばかりいた。
しかも、長年連れ添った夫は自分勝手でわがまま。こんな男のために残りの自分の人生を捧げないといけないのか? そんな不満を抱えながらも、やるべき事が見つからず悶々とする日々を送っていた。
「お母さん、もう自由に生きたら良いんじゃない?」
結婚して独立した娘が言った言葉。手を出されて以来、必要な事以外は会話もしない、冷え切った両親の姿を見てきた彼女は、もう別れて家を出たら良いと和美に言う。夫と倉田の生き方を比較して、更に魅力を感じてしまう。
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もっと彼の事が知りたくなり、二人で会って話すようになった。年齢は和美より二つ年上。五年前に最愛の妻を病気で亡くした。その心の傷を癒すために、アフリカでの医療を決断。遠く日本からやってきてお金もとらずに診てくれる彼を、神様のように思ってくれる。彼らの笑顔が、倉田の生きる希望になった。
身振り手振りを使って熱心に話す彼。普段の優しい顔とは違う情熱的な一面に、心地良いギャップを感じる。彼の生き方を応援する事が、自分の生きる道なのかも知れない。そんな気持ちになっていく。
何度も何度も熟慮を重ねた結果、和美は夫に離婚を切り出した。浮気していた事も知っていたけど、慰謝料なんていらないから別れてほしいと。後ろめたい気持ちを抱えていた広志は、黙って離婚届にサインした。
荷物は実家に送り、キャリーバッグを抱えて家を出る。向かった先は、古いアパート。ドアの前に立ち、ふーっと一息吐いた後、呼び鈴を鳴らす。
「はーい!」
低いが、よく通る声が聞こえた。ドアが開き、倉田が顔を出す。キャリーバッグを抱えた和美を見て、驚いた表情をしている。
「どうしたんですか?」
「来ちゃいました」
「え?」
「とりあえず、中に入れてくれませんか?」
和美は、離婚して家を出た事、倉田のように人のために生きたい事、倉田の活動を手伝いたい事を伝えた。そして最後に、一番伝えたい言葉を言った。
「私、倉田さんの事が好きです。私をお嫁さんにしてください」
ニコニコしながら黙って聞いていた倉田の表情が変わる。いきなり来て結婚してくれなんて、面食らうのも当然だ。拒絶されても仕方がない。そう思いながら、彼の答えを待っていた。
「わかりました。僕のお嫁さんになってください」
「えっ?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔の和美に、倉田は笑顔で優しく語り始めた。初めて会った時に運命的なインスピレーションを感じた事。大きくパッチリとした二重の和美に一目惚れした事。何度か会って話しているうちに、人格的に尊敬出来ると思った事。身振り手振りで、和美に惹かれた理由を語り続けた。
「こんな僕ですが、もし良かったら僕と結婚してください」
「はい!」
倉田と結婚した和美は、アフリカに行く彼についていき、仕事と生活の両面で彼を支えた。日本に帰ってきても、常に彼の傍にいて共に活動した。経済的に裕福なわけではないが、人のために役に立っている自分が嬉しかった。四十五歳にして、ようやく生きがいを見つけた和美は、第二の人生を楽しく過ごしている。
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