朝食を食べ終えた美優は、おもむろにiMacの電源を入れる。執筆は毎日のルーティンワーク。午前中と午後四時からが最も筆が進む時間帯である。会社員時代は仕事に忙殺されて小説を書く事もままならなかったが、今は好きな時間に書く事が出来る。
机の上のコーヒーカップから湯気が立っている。カフェインの力を借りて脳内ホルモンを刺激する。食後のコーヒーもまた、彼女にとっては欠かせないルーティンなのだ。
原稿を開いて書き進めてみるが、思う様に言葉が浮かんでこない。大事なシーンなのに、主人公の感情が美優には伝わってこない。実はこれには理由がある。
美優が今まで書いてきたのは、切ない男女の恋愛物語である。一方的な片想いや、ふとしたきっかけで壊れてしまう切ないストーリーだ。自分自身の恋愛体験がベースとなっており、悲しい過去を良き思い出として昇華させてきた。
ところが今は、切ない恋愛からは程遠いラブラブモード全開の状態である。遠く離れて愛しさを募(つの)らせてきた真行寺がそばにいる。いつでも会える場所に住んでいる。それ故に、少しも切なくないのだ。
「仕方ない。今日は早めのランチに行こう」
向かったのは、近くのお洒落なカフェ。人気店だけに、早くも人が入っている。特製てりたまハンバーグにヘルシーなサラダを食べ、食後のデザートを食べながらコーヒーを飲む。
美優がここを選んだのには理由がある。ここには様々な人たちが集まってくるからだ。右手に見える学生風のカップルは、何か楽しそうに話している。連休の旅行の計画だろうか。
左手には、高級そうなブランド服に身を包んだ四人のマダムたち。「ほほほ、あなたそれって本当かしら?」なんて言いながら楽しそうに笑っているが、決して大声は出さない。上品に口を手で隠している。
一番奥の席に座っているのは、ちょっと異質な中年の男女。難しそうな顔の男性と、俯(うつむ)いている女性。何を話しているのかわからないが、楽しい話題ではなさそうだ。別れ話だろうか?
浮気を妻に気づかれた男性が、彼女に別れを切り出しているのではないか。おそらく二人はダブル不倫。彼女は夫と別れるつもりなのに、彼はそんな気はさらさらないといった感じ。美優の妄想は膨らんでいく。
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金曜日を迎え、美優は朝から落ち着かない。いつもはルンバに任せっきりの部屋の掃除。今日は隅々まで念入りに磨き上げる。
他人がこの家に泊まるのは初めてである。しかもそれが真行寺なのだから余計に緊張する。彼が小姑のような性格でない事は承知しているが、出来る限り綺麗な状態で迎えたいと昨夜から考えていた。
玄関には、彼のために新しく買ったスリッパ。彼が座るソファーには、二人お揃いのクッション。テーブルには、綺麗な一輪挿しの花。全ては彼のために。
夕食には、彼が好きなカレーライスを用意。「甘口が好きだなんて子どもみたい」だと、一人で思い出し笑いをする。そして寝室には、今日のために新しく買ったダブルベッド。遂に本来の役目を果たす日だ。
洗濯をしながら掃除をして、少し休んでからカレーを煮込んでいるとインターホンが鳴った。
「ちょっと早いけど、来ちゃいました」
モニターに映る照れ笑いが可愛い。見とれている場合ではないと思いなおし、急いで仕上げに取り掛かる。そうこうしているうちにドアのチャイムが鳴り、彼を迎え入れた。
「おいしそうな匂いですね」
「ちょうど出来上がりました。さあ、いただきましょう」
食事をしながら、味の好みの話になった。薄味が好きだと言う彼は、出来るだけ素材の味そのものを楽しみたいと言う。
「女性も出来れば、あまりお化粧しない方が好きなんですよね」
「そうなんですねえ……」
「美優さんはお化粧しなくても素敵ですよ」
「えっ? ありがとうございます」
いつかは素顔を見せる時が来る。そう思いながら、今日まで勇気がなかった美優の視線の先には寝室がある。高鳴る鼓動が彼に聞かれるのではないか、そればかりが気になった。
夕食後のコーヒーを飲みながら、書きかけの小説を先生にチェックしてもらう。
「では、ちょっと見せてください」
真行寺の吐息が耳元をくすぐり、柔らかでやさしい声が胸に響く。必死に平常心を保とうと画面を見つめる。
「美優さん、ここはこの方がいいですね」
声のする方へ顔を移す。お互いの視線がぶつかり、一瞬時が止まる。自分の気持ちに素直になろう。美優は体の力を抜き、キーボードを操る真行寺の手に自分の手を重ねた。
「美優さん……」
真行寺は一瞬驚いて、すぐにその手を握り返し微笑んだ。真行寺の唇が優しく触れ、すぐに離れる。もう少しこうしていたいが、今は先生と生徒。
「もう、その顔はズルイです。僕だって、これ以上理性を抑えるのは大変なんですよ。では、先ほどの続きを」
「はい」
今までは電話越しに感想を聞いていたが、今は隣に座っている。先生の声が心地良くて宙に浮いているような感覚を覚えながら、美優は時計が気になって仕方がない。
「先生……お風呂が沸いています……」
「えっ? ああ……もうこんな時間ですね。では、お先に入らせていただきます」
「はい」
真行寺は軽くお辞儀をして浴室に向かった。十五分ほどしてから、美優が用意したパジャマに着替えて彼が戻ってきた。
「お風呂、ありがとうございました」
「先生、ビールいかがですか?」
「ありがとうございます。いただきます」
「じゃあ、私もお風呂入ってきます」
彼女の背中を見送りながら、ビールを喉に流し込む。「お泊り用のパジャマ、買っておきますね」彼女が選んでくれたパジャマを見て、今日は泊まる事を実感する真行寺。数メートル先の浴室にいる彼女の姿を想像すると、胸の鼓動が早くなる。喉の渇きを潤すように、ビールを飲み続ける真行寺だった。
先生を待たせるのが申し訳なくて、急いで入浴を済ませる美優。化粧も落とし、すっぴんの顔を鏡に映す。これから先生に全てを見せる事になる。お揃いのパジャマに着替えて彼の元へと向かう。
「先生、お待たせしました」
「美優さん……」
「私のすっぴん、こんな感じです」
頬を紅潮させて微笑む美優を、彼は優しく抱き寄せる。
「やっぱり、化粧しない方が素敵です」
「ありがとうございます」
今は先生と生徒ではなく、愛し合う男と女。見つめ合う二人の間に距離はない。美優は心を決めて瞳を閉じる。彼はそれを確認すると、愛しい気持ちを抱えながら優しく唇を重ねる。静かな部屋の中で、壁掛け時計だけがゆっくりと動き続けている。
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